古い建物や街並みをめぐる紀行・地方電化私鉄以外の駅関係の写真については兄弟ブログ(「古い建物と街並みをもとめて」・アドレスは右側の兄弟ブログらんの「古い建物と街並みをもとめて」をクリックしてください)にアップすることにしました。  こちらも是非ご覧下さい(但し、こちらのブログは駅の写真以外は鉄分ほとんどありません。悪しからず)。

2012年4月30日月曜日

1980年春、北陸電車巡り 本家地鉄電車訪問(2・在来型電車)

富山地鉄の旧型車は一見類似型ではあるものの、実はバラエティ豊かでした。
戦前の旧型車は、出力が低くまた間接手動制御方式であったこともあり、名鉄3800系が大挙入線時にかなり整理はされており、残存車は主に上滝線・立山線等本線以外で運用されていました。
訪問時には丁度新造が始まった14760形にまさに淘汰されようとしている最後の姿を捉えた形になりました。今回はその出力の低い在来旧型車グループです。

モハ7542 80.3.8 稲荷町ー不二越

 稲荷町脇の上滝線に丁度電車が走って来ました。天気が恨めしいです。


モハ12511 80.3.8 稲荷町
少し厳しい姿をした元黒部鉄道発注の12510形。ステップの跡が残っていました。



モハ10055 80.3.8 稲荷町
旧型電車唯一の3扉車。もとは合造車であったものを改造した車両です。
電動車は全て富山寄りは非貫通、反対側は貫通幌を備えた貫通型に改造されていました。
つまり、クハは必ず富山とは反対方に連結されるようになっていました。
モハ7542 80.3.8 稲荷町
モハ7542パンタ側 80.3.8 稲荷町

この電車、前面が微妙に下から上に向かって斜めになっています。当時の流線型ブームを取り入れたのでしょうか?また、上記のセオリー通り片側が貫通扉付きに改造されており、かなり表情が違うのも模型的です。


クハ16(左)、モハ7542(右) 80.3.8 稲荷町
 車庫内で貫通側の並びを撮りました。


クハ121 80.3.8 稲荷町
電動車はバラエテイ豊かでしたが、制御車は数も少なく平凡な姿の電車ばかりでした。
モハ10056 80.3.9 越中三郷ー越中荏原
常願寺川の鉄橋を渡る在来車二連。
モハ7541 80.3.9 越中三郷ー越中荏原
上の写真から振り向いて撮ったシーンです。

2012年4月28日土曜日

1980年春、北陸電車巡り 本家地鉄電車訪問(1)

キハ58の「のりくら」で一晩を過ごして早朝の富山に到着しました。いよいよ北陸の私鉄巡りの始まりです。
最初の訪問は地鉄電車こと、富山地方鉄道です。私の経営している(?)80分の1の心象鉄道も中越地方鉄道、略してインチキ地鉄電車ですが、本家地鉄電車に表敬訪問です。

富山地方鉄道は中小私鉄の雄と良く言われています。市内線・射水線を除いた営業路線が訪問当時94Km弱(これは今も変わらず)、旅客車数53両の陣容(世界の鉄道1976より)で、自社発注の電車も多く、アルペン特急等華のある列車もあります。
訪問当時は戦前からの在来型電車及び戦後の規格型電車のグループ、名鉄からどっと押し寄せた3800系グループと自社発注の特急用新性能電車の三つのグループが混在していました。そこに丁度創業50周年に合わせて新造されローレル賞を受賞した初の冷房車14760形が活躍を始めたところで、徐々に在来車の淘汰が始まる前夜、というタイミングした。

それぞれのグループの運用は厳然と区別されていたのでしょうが、初めて訪問した者から見ると何が来るかわからず、ワクワクの楽しみの多い鉄道でした。
また沿線の駅舎をはじめとするストラクチャーも見るべきものが今尚多く、路線のバラエテイと合わせて何度訪問しても楽しい鉄道であると思います。

3月の北陸はいつもどんよりとした雲に覆われ、関東平野とは勝手が違います。
なかなか陽射しを見ることの出来ない日々が続き、時として雪がちらつくような毎日でした。
まずは、代表車種の総天然色から何枚か・・・

モハ14752  80.3.8 電鉄富山
  電鉄富山駅では、いかにもの電車が発車を待っていました。
戦後の混乱期に製作された運輸省規格型電車の一つで、長野電鉄のモハ1500形とは瓜二つの存在です。この形式は大事に使われていた模様で車内外共によく整備されており、下手な大手私鉄の旧型電車よりもハイグレードでした。




モハ14752(左)、モハ14716(右) 80.3.8 稲荷町
 最初に稲荷町の車庫にお邪魔しました。
富山地鉄は色々と塗色変更を繰り返してきており、当時も大きく分けて三種類のグループがおり、その区分の境目は運用を見ている限りどうも微妙な印象がありました。



モハ14712(左)、モハ12511(右)
80.3.8 稲荷町
 左の電車は元名鉄の3800系、右はオリジナルの電車です。
オリジナルの在来型電車はいよいよ命脈尽きる時期が迫っていたようです。



モハ14712 80.3.8 稲荷町
 名鉄3800系を譲り受けた14710形は8編成16両もあり普通電車の主力的な存在でした。仲間のうちの半分の4編成はクロスシート化されており、特急車としても運用されていました。
そのためか、入線時の在来車塗装からブルートレインのような塗装に変更されており、更にこのあとはカルダン車と同じ灰色系の塗装にまた変貌を遂げています。こちらの形式も電動台車交換等結構な手が入っていました。



クハ161 80.3.8 稲荷町
 こちらは運輸省規格型電車に準拠して製作されたクハ161型。
車体長が製作時の名目の関係で短くなっています。
規格型電車同士で編成を組んでいるものの、先が見えていたのか、モハのような車内外の手入れはされていませんでした。

次回からは目にした車両たちをグループごとに紹介します。

2012年4月27日金曜日

1980年春、電車巡りの旅

1980年春、ようやく一年間の不安定な浪人生活を終えることができて、晴れて自由に趣味を謳歌できる立場となりました。
共通一次元年世代の私はそのあおりを食らって(・・ではなく単純に努力不足で)見事浪人確定となった1979年は、思うように行動が出来る訳もなく遠方の電車訪問は当然ながらお預けということになっておりました。そんな中でも各地の車両の世代交代の波は大きく押し寄せつつありましたので、この年の春はもう目一杯のスケジュールでの電車訪問の旅を企図しました。
概ねのスケジュールは以下の通りでした。
3月3日中央東線の甲府エリアを走る身延線電車の間合い運用を見るのを振り出しに、身延線、大糸線をちょっとだけ訪問後、中央西線を走る80系電車を訪問。そのまま名古屋方向にじわじわと西下、そして以前は時間切れで見れなかった名鉄電車に本格的に取り組みました。
その後桑名で未だ本線で活躍する吊り掛け電車を含めた近鉄電車を見てから名古屋発の夜行急行「のりくら」でいよいよ北陸の私鉄巡りを開始、富山地鉄から順番に福井鉄道までそれなりの時間を割いて訪問、その後関西に入り山陽、阪急、能勢電、阪堺線とまわって延べ15日間の旅でした。途中は親戚の家や夜行列車を活用、その他はYH泊という節約旅でもありました。
今回の旅のお話は北陸電車巡りを中心に綴りたいと思っておりますので、富山までの部分は流れをつかむ程度の紹介とし、一回で早送りをしてしまおうと思います。
クハ47055 80.3.3 塩崎ー竜王


最初の訪問先は中央東線の甲府エリアでした。中央東線の塩山から韮崎までの甲府盆地区間には身延線電車の間合い運用でローカル運転をする列車が設定されていました。
今なら別会社となってこんなことはあり得ないでしょうが、当時はこういう本線の区間運転は沿線で接続するローカル線の車両を使って間合い運用をするケースはあちらこちらで見られました。
甲府盆地のローカル電車は塩山から韮崎までの通し運転以外に甲府を境とした両方向単独の列車設定もありました。
身延線電車は肝心の身延線区間では使用されなくなった前サボがこの中央線区間ではしっかり使われていたのがちょっと魅力的でした。


クモハ60802 80.3.3 山梨市ー東山梨 
石和に叔母の家があったので、少年時代から良く石和近辺は行くことがありました。親は都内の親戚を拾って叔母の家に行くのがお決まりの行動でしたが、私は何度となく家から最寄りの中央線の駅である高円寺で行きがけ降ろしてもらって単独で石和まで行かせてもらいました。
目的は高尾からの山スカ71系乗車と、塩山乗り換えをわざとしてのこの身延線電車に乗ることでした。ある時塩山で下車した時に待っていた身延線電車にはサハ45が組み込まれていて、横須賀線時代の一等車の設備のままの車内を堪能したのが思い出されます。
しかしこの私の行動、今考えると随分と勝手なことをしたものです。
今その頃の親の立場となっている自分に問いただすと、息子にこんなこと言われてOK出せるか自信ありません。
この点については親に感謝しなければいけません。
クモハユニ44803 80.3.4 金手ー甲府
翌日は身延線もちょっと覗きます。身延線はまだ当分安泰そうだったので優先順位が低めで、詳細訪問は後回し扱いとなっていました。その身延線は甲府からの一駅間中央線と並走します。
本線も身延線もどっちも撮ろうという、欲張り作戦です。
運良く4両居る身延線名物クモハユニ44のうち、唯一全面低屋根化されずに比較的原形の面影を残す44803号がやってきました。44803号は仲間3両と別れて大糸線で運用される時代が長かったために改造時期が遅れたのが幸いして屋根を全部剥がされずに済んだわけです。この電車はその後随分と追い回しました。
クモユニ81003(左)、クハ86075(右)
80.3.5 松本
さて、当日の夜は、叔母に迷惑をかけつつ夜遅くに叔母の家を辞して甲府を深夜一時過ぎに通る夜行アルプスに乗車して松本に移動しました。早朝の松本は底冷えのする気温で一気に目が覚めます。丁度中央西線と大糸線の始発電車が並びます。
顔を並べるのはどちらも同じ80系の仲間ながら左のスカイブルーのクモユニは別物に見えてしまいます。
これから木曽路をじわじわと西下して行きます。
クハ86063 80.3.5 藪原ー奈良井

クハ86078 80.3.5 落合川ー中津川
木曽路を行く80系電車。中央西線の普通列車は基本的に中津川で運転系統が分かれており、中津川から松本までの区間は一往復の客車列車を除きほぼ80系の独壇場でした。基本は4連、たまにそれを二本繋いだ8連が走っていました。
この日は一日中80系列車を追いかけまわしました。
短編成ながらも木曽路に80系はよく似合っていました。

モ804 80.3.6 東枇杷島
 またもや夜行(多分「きそ」)で移動、名鉄電車に本格的に取り組みます。
往年の特急車、モ800を先頭にしたごちゃ混ぜ編成8連の急行電車です。
御存じのように名鉄電車は各地の支線からも含めてほぼすべての電車が名古屋を目指してやってきてまた反対側の各線に散らばっていきます。そこでどうせ見るなら名古屋駅前後の電車が全部集中する区間が当然お買い得です。しかしながらきれいに電車を撮れる駅は意外と少なく、殆どの電車が通過してしまうのでじっくり撮れないのが残念なもののここ東枇杷島を選びました。
さて、朝の東枇杷島は本当にひっきりなしに電車がやって来ます。何本か立て続けに電車が来るとついには徐行運転を超えて渋滞状態で止まってしまうこともありました。
パノラマカーを筆頭にありとあらゆる電車が当然ながらやって来ますが、当時の名鉄電車は吊り掛け電車がまだまだ大勢力を保っており、どんどんやって来ますので楽しくてしょうがありません。来る電車を全部撮っていたのであっという間にフィルムは消費、この日が私が一番多くの旧型電車に巡り会えた日であったと思います。
ク2351 80.3.6 東枇杷島
噂の「なまず」も準急電車でやってきました。
すでにこの時は1編成しか稼動していなかったはずで、その後は結局再会できませんでしたので貴重な出会いということになりました。スカーレットの塗装はこのデザインにはちょっと厚化粧気味な気がしました。
モ2256 80.3.7 桑名
お腹一杯になって次は近鉄の桑名を目指します。
近鉄名古屋線には昔日の特急車2250系がまだ現役で活躍中でした。
3扉になったとは言え、貫録十分です。
どっしりとした格好に似合わない(と私は思う)軽トラックのクラクションのようなタイフォンの音に違和感を感じました。
クワ51 80.3.7 桑名
荷物電車には往年の名車がやってきました。
張り上げ屋根や貫通幌の仕舞方など、どこを見てもやはり格好いいです。


モ5822 80.3.7 桑名
 桑名ではゲージの違う養老線の電車も一緒に見れるのが魅力です。
雑多な電車が同居する養老線にも既に名古屋線の大型電車に置き換わりつつありましたが、元南大阪線の特急かもしか号で活躍したモ5822に会えました。


デ32 80.3.7 桑名
本線では一風変わった貨物列車もやってきました。
中間に貨車と電車を繋いだプッシュプル編成でした。
電車の回送なのか他の目的なのか良くわかりません。


という訳で3月6から7日の二日間は生憎の天気ながらも、中京の吊り掛け電車を暗くなるまで堪能できた楽しい二日間でありました。
この夜、名古屋発の高山本線のキハ58の夜行急行「のりくら」で一路北陸は富山を目指します。
富山に行くまで7日間を要してしまいましたが、いよいよ待望の北陸の私鉄巡りの始まりです。

2012年4月25日水曜日

地下鉄銀座線の旧型電車(2・1500形から2000形まで)

銀座線の旧型電車、後編です。
丸の内線開業後の銀座線の増備車からはスタイルが一変、スマートになりました。


1682 82.5.22 中野工場
1600形はスタイル二種類あります。こちらが初期のタイプ。300型のデザインポリシーが反映しています。 初期のタイプは1500形と貫通路の幅の違いぐらいで大差はありませんでした。

懇願して望遠で撮った100形と同タイミングで撮った画像です。
ちょっとアップにしてみました。銀座線も丸の内線も中間に封じ込められた車両については貫通扉は全て撤去されていました。


1688 79.11.15 渋谷
後期の1600形では雨樋がルーバーの下に設けられています。

1702 81.8.17 渋谷
こちらは1700形です。 こちらもスタイルは似通っていました。

1821 81.9.21 渋谷
 銀座線初の両開き扉となった1800形。カルダン車の1900形とあまり区別がつきません。

2111 81.8.17 渋谷
そして最後は2000形。
銀座線、丸の内線の車号のつけ方、ご存知の方も多いと思いますが一風変わったつけ方をしていました。上二桁は形式を反映していますが下二桁は追い番になっています。
例えば1200形は1100形の後を継いで1231から始まり1254まで。次の1300形は1355から始まり1369までという具合です。後半リセットがあったものの2000形までその方式が踏襲されていました。

2012年4月24日火曜日

地下鉄銀座線の旧型電車(1・1200形から1400形まで)

銀座線末期の旧型車は編成の中間に封じ込まれており、尚且つ撮影も渋谷でしか叶わないという悪条件ではありますが、何回か渋谷で粘って全車見ることができました。

1254 79.11.15 渋谷
一番古いのは1200型です。運転台は撤去、さらに電装も解除されて付随車になっていました。
編成位置は浅草寄りの二両目に決まっていました。



1359 79.11.15 渋谷




1357 79.10.4 渋谷


1363 79.11.15 渋谷
 次に古いのは1300形です。こちらも運転台撤去、電装解除されていました。
1200形がほぼ全車同一形態だったのに引き換え、1300型はバリエーション豊かでした。
一番上が最も原型を留めている1359号です。この1359号を含めて二両だけが乗務員扉撤去、座席延長、戸袋窓のHゴム化の改造が行われないまま終焉を迎えました。
プレス扉が残念!
次はドアの更新が行われていないリベット付きの1357号です。
最後が多数派の1363号です。このように1300型はリベット付きと無しの二種の車体のものがありました。



1470 81.8.17 渋谷
二両だけ試作された1400形です。丸ノ内線の先行試作車であったようです。通風器形状に特徴があります。 こちらはモーター付きM車です。

2012年4月23日月曜日

久しぶりの北陸私鉄巡り

久し振りに北陸地方の各私鉄を巡ってきました。
今回の訪問のきっかけは今年からいよいよ置き換えが始まるらしい福井鉄道の連接電車、モハ200形をもう一度見ておきたかったことから始まりました。
そこで折角ですのでこの機会に、以前訪れた各私鉄の気になる電車・ストラクチャーの今を見ておきたいと思い、どうせならと一通り回ることにしました。
モハ201-1+201-2
12.4.19 家久ーサンドーム西
まずは最初の目的の電車、福井鉄道モハ200形です。当日は三編成のうち二編成が運用に入っていました。既に役割は朝晩の輸送力列車に充当されているのみの立場のようで、どちらも朝の一往復のあとは車庫で休んでしまいました。できれば昔の塗装に復刻された編成を見たかったのですが、車庫内に取り込まれていたようで残念ながら姿は拝めませんでした。
北陸地方は丁度桜が満開の季節で、沿線で綺麗な桜を随所で見ることができました。


MC6108 12.4.19 轟
次に訪れたのはえちぜん鉄道です。
あの悲しい事故で営業停止処分を受けて以来もう再起は無理なのかと案じておりましたけど、このように元気な姿を今見れることは何よりです。
電車はすっかり新しくなってしまいましたけれども、学生時代に吹雪の中、駅で凍えていた轟(どめき)駅は以前と変わらない姿で春を迎えていました。
良い天気と相まって、大変気持ちの良い再訪となりました。
これからのえちぜん鉄道の発展を祈念したいと思います。



モハ8812 12.4.20 粟ヶ崎ー蚊爪
 北陸鉄道は浅野川線だけ見てきました。
先日ご本家井の頭線から引退したステンプラカーですが、久しぶりにオリジナルの湘南顔を見て見ると、懐かしい気持ちになりました。そのステンプラ初期車の片開き扉タイプの電車はどことなく旧型電車に通じるデザインを残していて自分的には好きな電車です。
大野川を渡るこの区間は何も変わらずゆっくりと電車が眼前を走ってゆきました。

デ7018 12.4.20 堀川小泉
次は「元祖」地鉄電車です。
運良く市内線の吊り掛け電車、デ7000型がやってきました。
当たり前のように撮りましたが、戻って調べてみたら数を減らしつつあるデ7000型で旧塗装を維持しているのはこの7018号車のみのようでした。相変わらずガラガラとうるさい音を立てて走り去りました。

モハ10031 12.4.20 大庄
鉄道線のほうは先日のRAILWAYSでちょっと話題になりましたが、相変わらずのラインナップの電車達が活躍していました。富山地鉄は車両のバラエテイもさることながら、ストラクチャーが非常に魅力的です。以前の記憶では大庄の駅に桜の木があったのでこれを絡めて撮ってみました。
フォトジェニックな木造駅舎は建て替えられており、少しずつ変化も起こってきているようです。
電車は京阪特急のお古が思った以上に幅を利かせていましたが、稲荷町の車庫の中ではその京阪特急色に塗り戻されて、はとのマークも復活・整備中の仲間をチラっと見れました。
何かしらの復活イベントがありそうな予感です。


モハ14722 12.4.20 西魚津
 締めは最古参となった湘南顔の電車の中から、モハ14720形です。
もうひと編成の14720形は、残念なことに今年の正月に床下から火が出て全焼してしまいました。
昭和時代の湘南顔のオリジナル電車もかなり活躍の場を狭められている様子で、二日間の訪問で走っているのを見れたのはこの時の一往復のみでした。車庫には他に三本ほど居りましたが、そのうちの二本は既に御用済みの様子でした。
独特のの貫禄のある西魚津の駅で交換風景をバルブしてみました。

以上、簡単に今回の訪問記を綴って見ました。
この後営団地下鉄の残りの記事をアップ後に、学生時代の北陸紀行を今回の訪問を踏まえて綴ってみたいと考えています。




2012年4月22日日曜日

本日はこちらです。

北陸から一気に北上して、 本日は福島県猪苗代町の緑の村というところに来ております。
ここ緑の村には日本硫黄沼尻鉄道の機関車と客車が大事に保存されております。
元々沼尻の中の沢温泉の旅館に保存されていた車両を移転、 整備したものです。
また、こちらの緑の村には地元猪苗代町のご好意で私も所属しております、 軽便モジュール倶楽部のメンバーが製作した川桁から沼尻までの沿線の駅や途中の風景を再現したモジュールの常設展示をしております。
毎年冬季は閉鎖されておりますが、ようやく来週からのオープンの時期に合わせてメンテナンスにやって来ました。
これからの季節、桜や新緑の観光のついでにお立ち寄り下さい。

2012年4月21日土曜日

里帰りした温泉電車

昨日に続き北陸の私鉄を巡っています。
北陸鉄道が国鉄北陸本線の色々な駅から路線網を維持していた時代の最後の華がこのアルミ製のロマンスカーでした。
昭和38年日車製で、山陽電車に先を越されたものの、日本で二番目に製造されたアルミニウム合金製の電車です。
車体に合わない古風な下回りではあるものの、当時できることは相当頑張った意気込みが車内外の随所から読み取れます。
この電車を見ていると、昭和30年代の人々の上を向いて歩こうとしている姿が蘇って来るような気がしてしまうchitetsuでした。
明日は思わぬ場所に出現予定です。

2012年4月19日木曜日

本日はここに来ております。

本日は久しぶりにロングドライブをしてここに来ております。
場所がお分かりになる方は、かなり通の方かもしれません。
というわけで、日曜日まで記事の更新はお休み致します。

2012年4月18日水曜日

東洋初の地下鉄の名残

そろそろ先が見えてきた01系より前の世代の黄色い電車は、新旧取り混ぜ百鬼夜行のような電車の寄せ集めで編成されており、各編成ごとに組み合わせが違うのではと思えるぐらいのバリエーションがありました。そしてそれが平気で都会の繁華街の地下を走っていました。
黄色い電車の時代は、一部を除き駅の手前で前の車両から順番に室内灯が一瞬消えて真っ暗になり、非常灯が点灯したということを経験したことのある人もだんだん少なくなってきていることと思います。これは各車が各々集電を行っており、引き通し線を持たないためにデッドセクションで一瞬消えるということがおこったものです。各車がMGを積んでいればこんなことは起こらないのですが、新1500形以外は積んでいませんでした。
当時だってこんなことは銀座線だけの現象で、今からは信じられないようなことですよね。

2085 79.10.4 渋谷
2046 79.10.4 表参道
吊り掛け駆動の旧型車は全て中間に封じ込められて、先頭車は必ずカルダン車の2000形になっていましたが、中間は編成ごとに組み合わせが異なっていました。上の写真に比べ末期は前照灯の二灯化や方向幕の大型化、鉛丹色の屋根塗り分けの廃止等、外観に変化がありました。




2039 93.7.1 中野坂上
 一部の2000形は丸の内線の方南町支線専用に改造されて運用されていました。
ステップの張り出しで両線の断面の違いがわかります。


二枚とも82.7.31 末広町
途中の駅には開業時の内装を色濃く残す駅がいくつか残っていました。
この末広町以外にも、京橋・稲荷町も懐かしい昭和の風景がまだ残っていました。


1232 79.11.15 渋谷



1240 81.8.17 渋谷

 渋谷駅は今もあまり変わっていません。 これは発車待ちの風景です。
車内は不燃構造なのですべてスチール製であり、化粧板仕上げの内装ではないので、検査のたびにペンキの塗り重ねでちょっとギトギトになっていました。