古い建物や街並みをめぐる紀行・地方電化私鉄以外の駅関係の写真については兄弟ブログ(「古い建物と街並みをもとめて」・アドレスは右側の兄弟ブログらんの「古い建物と街並みをもとめて」をクリックしてください)にアップすることにしました。  こちらも是非ご覧下さい(但し、こちらのブログは駅の写真以外は鉄分ほとんどありません。悪しからず)。

2012年2月29日水曜日

車庫の裏側

上田原の車庫では多くの発見がありました。
ひとつは前回ご紹介した元長電の電車との再会でしたが、そのあと車庫の裏側に回ったら、もっとびっくりな発見がありました。

モハ3122 80.9.5 上田原
 そこには倉庫として生き延びていた元ガソリンカーたちでした。
全く予備知識のない出会いに興奮する当時の私でした。

モハ3121 80.9.5 上田原
 こちらはご丁寧にもヘッドライトまで装備した廃車体です。元善光寺白馬電鉄という幻に近い鉄道が発注したガソリンカーが出自です。丸みのあるバランスの取れた車体が好印象です。



サハ24 80.9.5 上田原
  ダルマさんになっていない廃車体も何両かありました。その中の一台。


サハ41 80.9.5 上田
 大変な興奮の電車庫訪問の最後に上田駅構内の外れに行ってみました。
そこにはまだ現役の元ガソリンカーが夕方の出番を待っていました。



クハ273 80.9.5 上田
  こちらは有名な東横キハ1型の成れの果てです。
流線型の先頭部はありふれた半流線型に改造されて大人しいスタイルになっていました。
この電車は「クハ」になったり「サハ」になったりして使われていました。
こうして最悪の朝から始まった長い一日は大満足の一日となって終了、信越線の客となったのでした。

2012年2月28日火曜日

二日酔の上田交通訪問

これまで体験したことのないレベルの二日酔を残したまま、信越線で上田を目指します。
当時18歳だった私は始めての上田交通に対面しました。これから何回上田に行ったことか・・・
上田の駅に降りると写真のような光景が目に入りました。

モハ5251 80.9.5 上田

上田の駅に降りると写真のような光景が目に入りました。
「温泉行き電車のりば」の看板が旅情を誘います。

モハ5251 80.9.5 上田

モハ5251、クハ252 80.9.5 上田
跨線橋を渡ると有名な丸窓電車が発車を待っていました。スカ色を彷彿とさせる落ち着いた塗り分けが好印象でした。
右側の電車は元ガソリンカー改造の電車、クハ252です。



モハ5253 80.9.5 上田原
 上田から4駅乗車して車庫のある上田原の駅に到着です。
駅に併設されている上田原電車区にはまさにフォトジェニックな光景が広がっていました。
この写真の左側にはちょっとビックリの光景が展開していましたが、それは改めてまとめようと思います。

クハ261 80.9.5 上田原
その上田原電車区で発見したのが、私の趣味人生を変えた(?)長電のモハ100型でした。
このような古い車輌に第二の人生の機会が訪れていようとは思いもよりませんでした。
情報が氾濫している現代とは違い、地方私鉄の情報はこの時代でも十分にはありませんでした。
その分、現地での発見の印象は深く刻まれるのではないかと思います。どっちが良いのでしょうか?


モハ5261 80.9.5 上田原
 同じく長電のモハ200型も発見しました。もう気分はウキウキ、二日酔いはどっかに飛んでゆきました。

サハ62 80.9.5 城下
上田原の車庫事務室にお礼を言って千曲川橋梁を目指して城下駅で降りました。
駅で一本電車が来るのを待っていたら、丸窓電車がトレーラーをぶら下げてやってきました。
電車が客車を引っ張る古い形態の運行方法を行なったおそらく最後の時代だったのではないかと思います。


モハ4257 80.9.5 城下ー上田
 大きなパンタグラフを振りかざしてやってきたのはこれまたいかにもな田舎電車、モハ4257でした。古い電車好きの私には、もうたまりません。
モハ4257 82.10.11 上田原
モハ4257は、富士山麓電鉄のモハ1型の更新で余剰になった車体に手持ちの下回りを組み合わせて誕生した電車で、1500V化を待たずに一足早く廃車になってます。

地鉄電車の増備(4)

本日は上田丸子の話題に行く前に、閑話休題。

AOBA MODELさんは、私にとって非常に「危険」なお店です。
滝澤さんはNEKO時代からお世話になっていましたが、自分的にはこれまでこんなに思うところをちゃんと捉えてコメントしていただける方は居ませんでした(地鉄電車の本参照です)。
なので、独立後リリースするアイテムは思いっきり自分の方向性と合致していてヤバイです(笑)。


名前はまだない・・・・機関車です。
 という訳で、今回も自らカモになってしまいました。
山形交通高畠線のED2が電車と仲良く手をつないで走るシーンは目に焼き付いていましたので
このキットを手に入れるまでの決断は早かったです。
因みにこの機関車は英国製で、制御システムは長電のあの400型と同じ「デッカー」です。

きっとですが、入手後はあっという間にここまで来ちゃいました。
後ろの車両と一緒に塗装待ちです。
色塗ったらまたご報告します。
でも、いつもながら塗装待ちでいろんなものが閊えてしまい、一挙に塗るハメになってしまいます。
どんなアイテムが待ち受けているかも今度(いつか保証できませんが)カミングアウトしたいと思ってます。
乞うご期待、です。



2012年2月26日日曜日

惜別 長野電鉄『河東線』 (3)

二回目の訪問は大学一年の夏、 大学鉄研の恒例夏合宿が松代の国民宿舎で行なわれた時で、 クラブで正式行事で須坂の車庫にも訪問しました。現地集合、 現地解散で前後の行動は自由なので、一年生有志で飯田線豊橋口から北上し、 篠ノ井線経由で長野電鉄入りしました。

モハ1502(左)、クハ1052(右) 80.9.2 松代



クハ1052 80.9.3 松代
 既に長野の駅は地下化が決定し、私の趣味人生を決定的にした愛すべき電車達は赤ガエルに仕事を奪われ鬼籍に入っていました。もうダメだと思いながら須坂に到着したら、かのデッカーの仕事場にはまだ旧型電車が活躍していました。

モハ1012 80.9.3 岩野ー雨宮



クハ1052 80.9.3 岩野ー雨宮
 そこで元気回復、 現屋代線区を合宿初日から翌日にかけてカメラハイクに向かいました。
沿線は好適な撮影スポットが散在していましたが、この後上信越自動車道の工事によって風景は一変し、どこでとったのかわからないほどになりました。
先日の2000系撮影時に上のクハ1052の撮影場所を訪問しましたが、画面後方には今は高速道路が左右に跨いでおり、当時の面影はありませんでした。


モハ1003 80.9.4 須坂

翌日解ったのですが、既に引退していたのは戦前生まれの車両達中心で、1000系電車はまだ長野までの本線運用に使われていました。

 


モハ1012 80.9.4 須坂
 



モハニ131 80.9.4 須坂
保存目的で一両だけ構内に留置されていました。
  始めての合宿、 私を含む一年生は先輩からの酒攻勢に想定通り遭い、 翌日の公式行事の車庫見学会は惨憺たる体調で、写欲も沸かず、数枚写真を撮っただけで再び河東線に揺られて吐き気を抑えながら、屋代経由次の目的地の上田交通に向かったのでした。
この後の上田原の車庫で古豪達に再会できることになるとは思いもせずに。

2012年2月25日土曜日

惜別 長野電鉄『河東線』(2)

残り少ない時間、 須坂の車庫にお邪魔しました。
駅の前後に広がる構内には 古豪から特急車まで様々な電車がお昼寝中でした。じっくり観察するゆとりはないものの、隅から隅までうろついてフィルムの予定枚数大幅オーバー覚悟で撮り続けました。


モハ101 1977.5.1 須坂


車庫の中なのが残念ですが、この車両に出会った事が私のその後の人生を決定的なものにさせました ( 大袈裟過ぎるか?)。
開業に合わせて1926年製造された電車です。スタイルは四角四面ないかつい、いかにも田舎電車然としています。まだ木造車が多かった時代の名残でトラス棒がついています。


モハニ231 1977.5.1 須坂

こちらは100型の増備車グループの合造車モハニ231 です。
少し全体に丸みを帯びて若干洗練されています。


モハ301 1977.5.1 須坂



第三世代の電車でまた少し洗練されて来ています。
この電車は廃車後、福井鉄道へ嫁いで行きました。 


モハ101(左・1980.6完成)、モハ116(右・2001.8完成)
2012.2.25 地鉄電車 浦町駅

趣味人生を決定付けた車両なだけに、模型も二度製作しました。
「地鉄電車」第一号はモハ101号実車をモチーフにデフォルメしたもので(改めて今見るとてんで似ていない気もします)、車号も「モハ101」です。
お隣は近年再度製作したもので、これを見ると1977年の初対面の記憶が蘇ってきます。

2012年2月24日金曜日

惜別 長野電鉄『河東線』 (1)

先日三月末で廃止となる長野電鉄屋代線に、これまた引退間近い特急車2000 系が走るとの情報があったので、恐らく最後のチャンスになると考え、万難を排して会いに行ってきました。

モハ2008 2012.1.21 信濃川田

モハ2007 2012.1.21 岩野ー雨宮
前サボの無い2000系は初めて見ました。
当日は残念ながら小雪混じりの天候でしたが、久しぶりに屋代線区間を堪能できました。
この機会に沿線に点在する木造駅舎に最後のお別れを兼ねて全駅訪問してみました。

これぞ正統派木造駅舎 2012.1.21 信濃川田


ひと昔前の屋代線電車
モハ1501 86.5.4 若穂ー信濃川田
私にとって長野電鉄は、 自分の模型での心象鉄道である『中越地方鉄道』の原点になった鉄道であるため、 お隣の上田丸子電鉄と合わせて特別な思い入れがあるため、どうしても最後にもう一回訪問を果たそうと思ったためです。
今回廃止となる屋代線区間には、 『デッカー』と呼ばれていた元東武鉄道の古色蒼然とした電車が限定運用されており、その電車がいよいよ引退するとの情報を得て訪問したのは高校2年の事です。

モハ401 77.5.1 須坂


クハ451 77.5.1 須坂


モハ411 77.5.1 須坂
これがデッカーと呼ばれていた電車達で全部合計で三両、制御器がDick-Kerrというシステムであることからこういう愛称がついています。制御装置の関係から限定運用されていました。
それにしても、この時代にして全車手動扉!

当時運転系統の分離されているこの区間が何故河東線と呼ばれているのか不可解でしたが、 歴史を振り返れば正当な名前である事が解りました。なので、今回のタイトルも敢えて『河東線』にしたのはその惜別の気持ちを込めたかったためです。

さて、 当時の私は『旧型国電命』な少年でしたので、 長野訪問の主目的は当然信越本線で活躍している旧型国電を見る事にあり、長野電鉄訪問は昼間も空き時間を利用したあくまでオマケでしか無かったのです … それが『吊り掛け電車全般 命』に変わるきっかけになり、 ひいては私のライフワークと化した『地鉄電車』誕生のきっかけにもなるエポックメーキングな訪問になろうとは本人も知る由も無い事です。

善光寺をイメージした国鉄長野の駅舎脇の地上に長野電鉄の駅は寄り添うようにあり、昭和一桁生まれのいかつい電車が発車を待っていました。車内に入ると壁で仕切られた荷物室にもお客さんが沢山乗っており、私はまずこの光景にショックを受けました。色々驚きながら、電車は須坂に到着です。

クハ451 77.5.1 須坂ー井上

時刻表を見ると約10分後に屋代からの電車が到着予定でした。当時の私の記憶と思考回路は今となっては定かではありませんが、 とにかくデッカーの走行写真が撮りたくて全速力で線路に沿った道を走ってこの写真を撮りました。
デッカーの写真はこれが全てです。まさに「一期一会」になってしまいました。

2012年2月23日木曜日

この本、オススメです!

一昨日、本屋さんで発見した新刊です。
あの諸河氏が主に1960年代の各地の地方私鉄めぐりをした時の写真が、エッセイと共に掲載されています。
私は中でも「田舎電車の時代」というコーナーに目が釘付けでした。
諸河氏の小学生から大学生時代の撮影された写真が多く掲載されており、自分との技量のあまりの差に(当たり前か・・・)こんなブログやってて恥ずかしくなるような画像が満載です。
地方私鉄大好きな方にはお勧めの本と思いました。

1972年夏、西武池袋線 中村橋にて

私の生まれは大阪ですが、万博(古いですね)の前の年からは西武沿線に引越し、西武線とのお付き合いは40年を超えてしまいました。
これからも折を見て、西武線の記録をご紹介してみたいと思っていますが、まずは小学校時代のお恥ずかし写真第3弾です。
当時の行動範囲の最遠の場所がここ、中村橋駅です。
高架化される前までちょっとおしゃれな洋風駅舎が最後まで残っていたのを記憶にある方もいらっしゃると思います。
上下線に各々駅舎があり、上下の往き来は公道を介してしかできないという、当時でも少なくなりつつあった構造をしていました。




クモハ516 1972.7 中村橋
        
(西武線にしては)強力な電動機を装架していた501系です。
台車もM車だけですがちゃんと空気ばねに改造されています(写真は潰れていてすみません)。
なかなかまとまったスタイルをしていると私は思うのですが、鉄道ファンからは余り注目されることなく引退してしまったのが、残念です。
夏の暑い午後だったと思うのですが、車掌さんはちゃんと上着を着て写真を撮っている私を見ています。
まだ4両編成で事足りたのも今としてはびっくりです。




クモハ451型(車番不明) 1972.7 中村橋



まだ黄色い電車が少数派だった時代なので、赤い電車が次々来ます。
これはクモハ451型です。切妻カマボコ車体で両開き扉と国鉄101系パクリデザインですが、下回りはバッチリ戦前グレードの新車でデビューしています。余り乗り心地も良くありませんでしたが、なんとなく好きな電車でした。





クモニ1  1972.7 中村橋

        
こちらは武蔵野鉄道の唯一の生き残り、クモニ1型です。
一回一畑電車に行ってから里帰りした不思議な経歴を持った電車です。
ちゃんとこの駅にも止まって荷物を下ろして走り去っていきました。



クハ1411型(これまた車番不明)  1972.7 中村橋

最後はブレブレヘタ画像で失礼します。
当時の上りホーム側駅舎脇から池袋方を見た画像です。
「急行 飯能」行きのサボも凛々しく通過する姿がなんとなく気に入っています。

小学生時代のお恥ずかし画像は三回にて終了として、今度は数回間を置いて中学生の自分が初めて単独行動を許してもらい、旧型国電を追って西に下関まで行ったお話をしてみたいと思います。


                         

2012年2月22日水曜日

二度目の車庫訪問

昨日ご紹介した小手指検車区には、同じ年の秋に味をしめてもう一度訪問しています。
この時は多分父親のカメラにカラーフィルムをおごってもらって万全の体制で臨んだのですが・・・



クハ1432 1972.11.23 小手指



やっとまともな写真が登場です(ちょっと傾いていますが・・・)。
20Mのクハ1411型は国鉄のクハ55をパクったようなスタイルながら、その仲間は幾つかの種類に分類できます。また、相方の電動車が計画されなかった不思議な形式でもあります。
その中で、このクハ1432だけは「純正」の国電、モハ40型の改造車で、仲間のうち唯一の戦前生まれ。
当然真っ先にお役御免になっており、他の車はクモハ351や451型とコンビを組んでその後も結構長きに渡って活躍したのとは対照的に、後ろに繋がれた17M車と同じ運命を辿ってしまいました。


クモハ369 1972.11.23 小手指


 
こちらは現役バリバリの17M車、クモハ351型です。なんで順光側に行かずに電柱までご丁寧に入れてこちら側を撮っているのか・・・今見るとトホホ・・・であります。
相棒はクハ1411型、先ほどのクハ1432とは異なり、自社工場製の妻面切妻、幅広の貫通扉(なぜか開かない)付きの車両で、割と後年まで活躍しました。


二度目の車庫訪問は万全の体制のはずでしたが、今回もネガに残っているこれ以外の写真は車内や屋根の写真やらばかりで、改めて見ると全く何考えているのか・・・
勿体無いです。

2012年2月21日火曜日

初めての車庫訪問

自己紹介を兼ねまして、昭和47年(1972年)に初めて自分で写真を撮ったネガの中から拙い写真をご披露します。
ご笑覧ください。
西武秩父線が開業してからまだ間もない頃、私は小学校の遠足で芦ケ久保に行きました。
遠足の脚は西武線。地元の中村橋からは定期列車に当時一番ご老体の焼け電再生の311系が二両、ガキ共専用車として増結されており、一斉に乗り込みました。周りの友達は「ボロ、ボロ」とわめいていましたが、私は内心嬉しくてたまりませんでした。
その車中、当時まだバラストの真新しい小手指の車庫を通過した時に古い電車が端っこに集められているのを見て、どうしても行きたくなってしまいました。そこで、母親におねだりして小手指検車区に訪問した時の写真が今回の写真です。
今考えると、小学生が母親と車庫を訪問するなんてちょっと無謀な気がしますが、何のアポイントもなく来訪した不審な親子に、車庫の方は優しく対応いただき入れさせてくれました。
良い時代だったのですね。


クモハ372 1972.4 小手指



目指すは現役車に目もくれずに一番奥まった所にある姥捨て山です。
小手指の車庫の一番奥は当時から廃車待ちの電車置き場と化しており、17M国電の残党、311系が一杯並べられていました。写真右側の電車群は部品も外され、投石で窓ガラスも割れており、哀れな姿になっており、子供心に悲しい思いをしたのを覚えています。
その時のご満悦の記念写真です。
よく見ると国電払い下げの371系グループでも数少ない埋め込みライトの車で、このワンカットした撮っていないのが残念です(自分が写っているのが邪魔・・・)。



こちらは部品も外され余命いくばくもないクハ1311型です。



全体を遠くから見た画像です。



ちょっと荒れ気味の車両の中ではましな一両の車内です。
片隅運転台の車と全室運転台の車が混ざっていました。
ファンからみると片隅運転台がやっぱり良いですね。

これ以外はなぜか台車やタイフォンやら線路やら訳のわからんものばかり撮っていて、お見せできそうな画像がありません。当時の私は模型資料としようとしたのか、何を考えていたんでしょうか?
ということで、初めての車庫訪問記でした。
お粗末さまでした・・・


地鉄電車の増備(3)

「地鉄電車の増備」冒頭で紹介した、お手軽地鉄電車の餌食となったTOMIXの琴電3000型の余剰車体の活用法ですが、こんな感じにしました。


両運転台のクハです。
屋根は身ぐるみ剥いで細かい突起を全部切り落としてパテで埋めてフラットに。
ヘッドライトもちょっと気に入らない形状だったので、エコーのパーツに交換。
貫通扉もカッターで刻んで(プラなので簡単に加工できます)、木製のものに交換して凛々しいお顔に変身させました。
丸窓からHゴムに改造された戸袋窓が車体全体で眺めるとどうもバランスが悪いので、これもカッターで刻んでアルミサッシュに交換することにしました。



下回りは全く新規に起こさなければいけませんが、これはプラ板で安直に作っちゃいました。
ベースのプラ板(1mm)に最近マイブームのEVERGREEN製のV-GROOVE(2mm)という筋彫りされたプラ板を貼り重ねることで木目を表現しています。
あとは同じくEVERGREEN社製の各種角材、チャンネルを駆使して台枠表現をしています。
接着もシンナーを流すだけなのでお手軽です。
台枠表現は、以前であれば真鍮板にチャンネルや角線をハンダ付けしては削っての難行苦行のしんどい工程でしたが、今やちょちょいとできちゃいます。
素材パーツの進化・充実に感謝、感謝です。


右は同じ手口で既に完成している琴電改の電動車です。
結構格好良いでしょう?
この電車とMcTcコンビを組ませたいと考えています。

2012年2月20日月曜日

地鉄電車の増備(2)

お手軽地鉄電車、楽しいディテール作業をしました。
床下のエンド部分は製品のパーツは使用せず、プラ板で床板を新製、弊社定番のパーツでまとめました。
屋根上はエコーパーツオンパレードです。
パンタグラフは手持ちが僅かとなったフクシマのTDK-Cタイプ。
この電車にはよく似合います。
この辺りのパンタグラフ、再発売されるのでしょうか?・・・心配です。
写真後ろにも似たような手口の車両がもう一台ちらついています。
こちらは改めてご紹介したいと思います。

2012年2月19日日曜日

17M国電、最後の残党の活躍

世の中から吊り掛け電車自体が過去帳入り間近になった平成になっても、首都圏で旧型国電、それも17M国電の残党が活躍していたことをご存知でしょうか?勿論、定期の客扱いではありませんが、つい数年前まで横浜駅まで月に一回は顔を出していました。

2006・5・29 いずみ中央
 

このモニ2019の前身は戦災で焼失した国電を出自としています。最初は叩き直しの車体だったものを車体更新したものですので、すでに足回りを中心にかなりのご老体でした。旅客営業終了後も荷物電車として残り、最後のお仕事は架線検測でした。


2006・7・31 鶴ヶ峰  
 

架線検測電車は基本、月に一回全線を走行していました。
動く日については毎月のタイミングは大体決まっていたものの、実際には一週間ずれてしまうこともあり、スカを喰らうことも結構ありました。


2006・5・29 大和ー相模大塚
 

毎回、予想をして会社の午後休暇を取った時期がありましたが・・・
結果は1勝1敗ぐらいのペースでしか会えませんでした。
毎月都合良く休める訳もなく、チャンスは限られていました。
そんなわけで、首尾よく休めた日の午後の通過時間が近づくといつもドキドキでした。
その分、やってきた時にはかなり興奮して追い駆け回しました。
何回か追い回してしているうちに、いよいよ後継車が完成、自分にとって間近で出会える電車らしい最後の電車は鬼籍に入ってしまいました。