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Thursday, October 3, 2013

祝・50万アクセス~伊予鉄道モハ50形

お陰様で50万アクセス、ありがとうございました。

恒例、数字『50』に因む電車、今回は伊予鉄道のモハ50形です。

モハ50形は前期グループと後期グループでは全く異なった外観を持つ電車です。
同形の前期グループは屋根の深いクラッシクなスタイルをしており、全てナニワ工機で京都市電の800形をべースにして製造された電車です。

ウィキペディアによると・・・『これは新造計画の時、車輛製造メーカーで引き受け手が無く運輸省の紹介でナニワ工機で新造されることになり、ちょうどナニワ工機で製造されていた京都市電800形866-880号の車体を伊予鉄仕様に設計変更して51-55が造られ、56以降は同じくナニワ工機で造られていた広島電鉄500形電車と同じ前中扉仕様で造られた』とのことです。

製造当初の1951年当時は車両の新造も中々苦労が絶えなかったワケですね。

53 10.7.30 木屋町
その前期グループのモハ53が専用軌道区間の城北線木屋町に進入するところです。
正面から見ると特徴である深くて丸っこい屋根が良くわかります。
可愛い電車ですね。


51 10.7.30 木屋町

こちらは同じモハ50形トップナンバーのモハ51。

モハ52 10.7.30 県庁前ー市役所前
最新鋭のモハ2100形も増えてきたものの、50形も主力で頑張っています。
メインラインの県庁付近を往く古い電車。

モハ57 10.7.30 県庁前ー市役所前

愛媛県庁をバックに。
県庁も電車もどちらも年代物です。
良くマッチングした風景です。

モハ51 10.7.30 古町
モハ51を形式写真風に一枚。

モハ51 10.7.30 
同じく車内。
ニス塗りの内装に油が塗られた床・・・。
昔は当たり前だったこの内装、今は希少です。

モハ54 81.3.7 松山市駅前
こちらは約30年前のモハ50形です。
初めて伊予鉄道を訪問した時に松山市駅前で次々とやって来る電車を一周するまで撮りました。
この時に車齢既に30年。
その大半が21世紀を迎えた今でも現役で活躍しているというのは(趣味人からみれば・・・ですが・・)素晴らしいことです。

モハ60 81.3.7 松山市駅前

モハ50形前期車でもその後半グループは仕様変更がされています。
解りやすい点は雨樋の有無でしょうか。
正面に『暖房車』と掲示されているのが、時代を感じます。
何でそんな掲示があるのか??な方向けに解説。
電車の暖房装備は非冷房車でも当たり前と思っている方は40歳代以下の方々でしょう。
その方々には信じられないでしょうが、昭和50年代までは暖房・扇風機なしという電車は結構あったのです。
営団丸ノ内線の赤い電車は最後まで暖房がありませんでした。
冬の朝の茗荷谷出庫車に池袋から乗った時は心底冷えました。
人いきれでやっと暖かくなるのは大手町あたり。
ちょっとびっくりでしょうか?

話題が脱線しました。
ということでこの当時はヒーター装備がサービスとして主張できたということですね。




モハ51 10.7.30 松山駅前
松山駅前を出てゆくモハ51。
鉄道線はカラーリングが今風に変わってしまいましたが、軌道線は昔からの塗装が継承されているのも良いですね。

モハ69 10.7.30 県庁前ー市役所前
こちらは後期のモハ50形です。
前期モハ50形とはスタイルが全然違います。
これなら別形式にしてもおかしくないです。
続番に拘るのであればモハ62形とかにした方が良かったのではないか、と思えるくらいです。

プロフィールは又もやウィキペディア引用です。

・・・『62 - 69はナニワ工機(現・アルナ車両)で、70 - 78は帝國車輛で製造された。前面窓が鉄道線用の600系と同じデザインに変更され、屋根の浅い軽快なスタイルで、軽量構造を採用している。
・・・62 - 64は1960年に3両が製造された。当時のバス車体の工法を取り入れた軽量車体で、側面に補強用のリブとリベットがある。自重は12.96tとなっている(51 - 61は15.88t)。また、このグループのみ前扉が2枚引き戸である。
2100形増備により62を最後として2005年3月までに3両とも廃車。これにより、2枚引き戸車は全廃された。
65 - 69は1962年に5両が製造された。車体の構造は62 - 64と変わらないが、前扉が1枚引き戸になった。
65は2100形増備により2003年度に廃車。66 - 69が現存する。』
とのことです。

モハ62 81.3.7 松山市駅前

これを撮った時は呉の電車がやって来たのだろう・・ぐらいの認識でした。
なんか共産圏の電車みたいで・・・う~む、個人的にはあんまり好みではありません。


モハ51 10.7.30 松山駅前

夏休み親子旅で息子と二人で訪れた2010年夏の松山(こちら⇒夏休み親子旅~松山編)。
この電車を見送って松山を離れました。
次に松山を訪れる時は、どんなラインナップになっているのでしょうか?

10 comments:

イヌ鉄 said...

50万ちてつ殿、おめでとうございます!
完全にブログの「格」が違ってしまいましたね~(核)!
でも今後ともなにとぞよろしく~!
「62」の浅い屋根と大きな四角い窓はなんとなく東急電車みたいでぼくはすきかも・・・・

chitetsu said...

イヌ鉄殿
おはようございます。
50万、一足お先に失礼しました〜。
次回の藝術真鍮、楽しみにしています〜。

Cedar said...

50万アクセス達成おめでとうございます。
60万アクセスのネタも準備しておいたほうがいいですよ~
クモハ60、オハ60、玉電60~ま、いっぱいありますね

つのすけ said...

50万アクセス記念でこの電車を出すあたり、通ですねえ。
本当に同一形式とは思えないほど違いますね。
私は後期型のほうが好きです。前期型のほうが先に冷房化されたり、廃車とか考えると、後期型のほうが使いにくかったのでしょうか。
「美人薄命」なのかもしれません。

chitetsu said...

Cedarさん
ありがとうございます。
そうですね、60考えておきます〜。
結構居ますね、60ネタ^o^。

chitetsu said...

つのすけさん
伊予の50形は無理くり同形式にした感じがしますね。
後期の車両たちが先に廃車になったのはやはり軽量車体が災いしたのでしょうか?

なにわ said...

二次型が広電500の模倣ってのは初めて聞きました。
一次型が京都市800の設計流用だってのは昔から知ってましたが、広電初代800も京都市800の設計流用車ですから、そのデザインが継承された車の設計流用ってのがねえ。
しかも、瀬戸内を挟んで兄弟車が走っており、京都市から1900と2000が広島と松山に流れてきたのですから。さすがに1800は古くて入れなかったのでしょう。

軽量設計、やはりへたるのが早かったのでしょうか。京都市700もワンマン化されませんでしたし。

chitetsu said...

なにわさん
このあたりの設計流用については一部想像の域を出ないような部分もありそうですね。
私は今回調べるまでこんな経緯は知りませんでした。
でもゆとりのない時代でしたので、流用できる部分の設計はかなり使われていたのでしょうね。

元・いきもの部長 said...

50万アクセス、おめでとうございます。
お祝いがおそくなり、申し訳ありませんでした。
クモハ50か元モハ50(クモハ11400)あたりかと思っていたら、伊予鉄道モハ50形とは意外でした。
前期型似の京都からやってきたモハ2000形、後期型似の呉からやってきたモハ1001~3(形式上はモハ50形)は、伊予鉄道オリジナル車とよく似ていました。
そういえば、呉市電廃止後に対岸の松山にやってきたのは、少し前に玉野市交通局の気動車化で対岸にやってきた琴電750形のケースと似ていますね。

chitetsu said...

元・いきもの部長さん
どういたしまして、ありがとうございます。
クモハ50は5万アクセスで使っちゃいましたので・・・。
京都と呉、どちらの電車も違和感なく松山の電車の仲間入りしていますね。
後期型に及んでは無知な私は全部呉から来たのかと思っていたりしました。
瀬戸内海を渡っての車両譲渡、不思議な縁です。