石松電車こと静岡鉄道秋葉線の終着駅、遠州森町駅の跡地は静岡鉄道バスの車庫になっていました。
91.4.1 遠州森町 |
1991年訪問当時、鉄道時代の駅舎は健在で、バスの事務所になっていました。
少年時代から大の電車好きです。 物心ついた時には踏切の横に立って電車を見ていました。 以降、全国各地に吊り掛け電車を追いかけて歩いた記録を中心に、模型やストラクチャー探訪記などを気まぐれに載せてゆきたいと思います。
三山線回顧後編です。
私が初めて訪問した1983年には沿線の遺構はほぼ消え去っていました。
ただ、終点の間沢駅は立派な駅舎が残っており、廃止後も山形交通のバス営業所として利用されていました。
間沢駅舎をホーム側から見ます。
線路が撤去されて舗装されただけで、それ以外は電車時代のままであった。発着するバスもこのホームから出発しており、まさに電車の風景をトレースしていた感じです。
間沢駅の待合室には三山電車記念品コーナーがあり、電車時代の写真や遺品が展示されていました。
間沢駅構内には鉄道時代の電車庫と思われる建物が残っていました。右手にはシートを被ったモハ103の姿も見えます。
モハ100形は開業時に新造した四輪単車です。モハ102は1950年代後半に廃車されたものの、モハ101・103は事業用車となり、モハ101は間沢駅での入換車、モハ103は「工事電車」の方向板を付けて廃止まで生き残り、工事列車の牽引車となっていたというのも驚きです。モハ101は解体されたものの、モハ103は保存前提で保管されていました。写真は廃止後保存のためにシートをかぶせられた状態で間沢駅構内に保管されていた時代の姿です。
山形交通三山線が廃止になてからもうじき50年になります。
三山線は出羽三山への参詣客の輸送や、鉱山物資の運搬を目的に、1926(大正15)年12月に三山電気鉄道として、当時の鉄道省左沢線羽前高松駅と海味(かいしゅう)駅の間8.8kmで営業を開始しています。その後1928(昭和3)年)9月に間沢駅まで延長し営業距離は11.4kmになっています。開業後の経営は比較的順調で、地域の通勤・通学客と共に出羽三山の参詣者も非常に多かったそうで、鶴岡までの延伸という話まで出ていたそうです。
1943(昭和18)年10月1日には戦時統合により三山電気鉄道は、以前紹介しました高畠鉄道(高畠線)、尾花沢鉄道(尾花沢線)および山形県内陸地域の各バス会社を合併します。その時に同社は存続会社となり山形交通に社名を変更して、同社の三山線となっています。
戦後の推移はどこの鉄道でも同じで、1950年代に輸送のピークを迎えるものの、相次ぐ鉱山の閉山や1960年代以降のモータリゼーションの進行により業績が悪化し、1974(昭和49)年11月18日に全線を廃止しています。
網谷忠雄氏所蔵・禁転載 |
山形交通三山線は左沢線の羽前高松というローカル線のごく普通の駅を基点にして、月山の麓の間沢までの路線でした。写真はその起点の羽前高松駅構内でのスナップで、右手に曲がってゆくのが三山線の本線。左手には左沢線が走っている。留置されている電車は西武鉄道からやって来たクハ11とモハ105。
開業時の木造単車モハ103が旧睦合駅からほど近い月山の酒蔵資料館の屋外に静態保存されています。同資料館内には三山線の資料コーナーが設けられており、当時の写真や資料等が展示されており、無料にて見学が可能となっています。屋外展示であった同車は傷みが激しく一部屋根が落ちてしまう状況でしたが、現在修復プロジェクトが行われています。
昔、客車の車窓から見えた田舎電車というのは心に残ったものです。
田舎電車はたいがい国鉄線の片隅を間借りして発着していたものでした。
そして大概ホームには大きな看板が掲げられており、そこに小さな電車がお客さんを待っていたものです。
二度と戻れない良き光景です。
お知らせです。
毎年2回開催のアートマルシェが今回めでたく10回目を迎えます。
クハ79428 79.8.5 関内 |