当時は旧デハ1000形全盛の時代でしたが、その中を湘南顔のひと世代前の電車たちも、未だとても元気に走っていました。
デハ469 81.4.1 弘明寺 |
弘明寺駅を見下ろせる歩道橋からやって来る湘南顔電車を撮りました。
こちらはデハ440形ですね。
吊り掛け電車は加速性能の問題から普通列車には充当されず、急行列車を中心に使われていました。
デハ508 81.4.1 弘明寺 |
こちらはデハ500形。
デハ632 81.4.1 弘明寺 |
この角度から見ると440形どころか下手したらこの床下冷房の600形とも区別が付きません。
デハ501 81.4.1 井土ヶ谷―弘明寺 |
ドア間一か所しか窓の開かないデビュー時の700形が「走る棺桶」と揶揄されていましたが、同じ窓配置のこちらには何故か余りそのような仇名で呼ばれてはいなかった気がします。
デハ742 81.4.1 弘明寺 |
その頃の『赤い棺桶』です。
まだ冷房が無い、夏には乗りたくない電車時代です。
デハ504 81.4.1 井土ヶ谷―弘明寺 |
冷房のない実にシンプルな屋根廻りです。
デハ601 81.4.1 井土ヶ谷―弘明寺 |
最後は暮れなずも弘明寺付近を行くデハ601です。
この電車はご贔屓電車のひとつ、模型も買ってしまいました。
10 comments:
この時代の車両は運転室の後ろに座席があるので、カブリつきは真ん中にしか立てません。
そうするとあの細い鼻筋でも、結構目障りなんですね。
京急蒲田に住んでいた者としては空港線の旧型車はそれこそ空気みたいなものでした。このため全く写真を撮っておらずchitetuさんのこのブログ写真なども非常に有難いです(^_^;)私は700系の鉄錆と油の匂いが記憶に残っています。
この頃の湘南顔の吊り掛け電車は、加速性能向上のためにサハを一部外した3連または6連でした。
それでもchitetuさんが書かれている通り普通列車に必要な性能は得られず、主に急行に使われていました。
当時3連だった800形も普通列車には使いにくく、こちらも主に急行用でした。
最新車両とそれに追われて消え去る車両が、同じような運用に就いていました。
モハメイドペーパーさん
京急の電車は後年まで乗務員室の後ろに座席があって、前面眺望が楽しめましたね。
確かに真ん中からは柱邪魔そうです。
郊外電車デハさん
地元電車って結構撮らないものですよね。700形も以前は結構ブレーキの音がしていました。
三等急電さん
こういう運用の仕方は他線区でも結構見られましたね。
お客さんは逆じゃないかと不思議に思ったことでしょう。
このころの京急は吊り掛けカルダン入り乱れ、楽しかったですね。クロス時代の500も急行に使われてました。
D急行(逗子線急行)は伝統的に吊り掛け運用が多く、その昔はかの230も使われて、逗子の鉄友人は杉田あたりで110km出た!と言ってましたがまさか・・
Cedarさん
この時代大手私鉄で高速運転の吊り掛け車体験は京急が一番でしたね。
230形のD急行、乗ってみたかったです。
三等急電さんの吊り掛け電車を快速運用に入れる話は、1980年のRJ誌の大糸線旧型国電のルポにもありました。旧型国電は発電ブレーキを装備してなく、制輪子だけで停止するため、制輪子の摩耗が大きな問題になるため、制輪子を持たせるために、旧型国電は停車駅が少ない快速運用に入れ、普通列車には急行間合いの165系入れるようにしている、との記述でした。実際、「国鉄電車編成表」1978年版に収録されている大糸線旧型国電のダイヤグラムを見ると、旧型国電で運行される列車は意外と少なく、特に信濃大町以北の旧型国電使用列車が非常に少なくなっています。
原口さん
その話、私も聞いた事があります。
大糸線の信濃大町以遠では旧型電車は撮りにくかったです。
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