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Monday, February 16, 2015

叔母が撮った武蔵溝ノ口の風景

以前、叔母の撮った渋谷のメーデーの写真(こちら⇒オリンピック前夜の渋谷の風景)をご紹介しましたが、本日は溝ノ口の風景です。

なので、今回の画像も当然ながら私の撮ったものではありません。
前回同様私の叔母が学生時代に写真家を目指して勉強していた時の練習用ネガから発掘したものです。
叔母の被写体の大半は人物ポートレートでしたが、その中に何故か『南武線の武蔵溝ノ口でのポートレート』というネガがありました。
人物が中心の叔母にしては珍しく鉄道風景を撮ってありました。
そのポートレート画像をピックアップしました。


63.2 武蔵溝ノ口

雪の舞う中、武蔵溝ノ口駅構内で入れ換え中のC12。
撮影時期は特定できませんが、前後のネガの流れから1963年の2月頃と思われます。

63.2 武蔵溝ノ口

何故か警報器を撮っています。
どうせなら通り過ぎる電車も撮っておいて欲しかったです。

63.2 武蔵溝ノ口

駅前の風景でしょうか。
戦後の闇市のような風景は今もわずかに残っています。
その風景はこちらをどうぞ(⇒土曜日は東急線の日)。

63.2 武蔵溝ノ口

灯油缶で焚火・・・・
昔はこんなこと、よくやっていましたね。
自分も親にねだってしてもらいました。
目の前で火が点ることの嬉しさみたいなものがありました。
背景のミゼットも泣かせます。

63.2 武蔵溝ノ口


武蔵溝ノ口は貨物扱いも盛んだったようですね。
叔母は何を感じたのかこんな写真を遺しています。

63.2 武蔵溝ノ口

ダンプカーはいすゞのTX。
子供の頃、このダンプカーは怖かったです。
右手の貨車も懐かしいです。


63.2 武蔵溝ノ口


無蓋・有蓋の黒い二軸貨車が途切れもせずに踏切を通過する風景は自分にとっての鉄道原風景の一つであります。
同世代以上の方には分かっていただけるかな、と思います。
以上、52年前の武蔵溝ノ口の風景でした。

14 comments:

昔溝ノ犬 said...

テツドー趣味復帰者のワタシはいまだに無蓋・有蓋の黒い二軸貨車が途切れもせずに踏切を通過しないのが不思議です。
昔の溝ノ口、叔母様はなんか惹かれていかれたんでしょうね。
わかるような気がします。

い said...

この時代を伝える素晴らしい写真です。
当時から活気のあった溝口の情景が読み取れますね。
ネガの保存状態も良く、ほかの写真も発掘してください。

シグ鉄 said...

旗の台ー溝口ー登戸ー向ヶ丘遊園ー豆電車。
父に手を引かれこんなルートで遊園地に行きました。
今と違って溝口乗換えは結構、歩いた記憶があります。
子供だったからでしょうか。
懐かしい画像を有難うございます。

Pleiades said...

昭和38年まで武蔵溝ノ口からほど近い二子にに私は住んでいました。
その頃は、毎月溝の口駅前の本屋へ航空ファンを買いに行ってました。
夜になると浜川崎に帰って行くC12の汽笛が良く聞こえました。

hiro3 said...

こんばんは。いつも、楽しく拝見しています。
南武線沿線で、生まれ育った自分にとって武蔵溝ノ口は馴染みの駅です。45年前の南武線しか知りません。昔、貨物取り扱いしていたんですね。その名残のようなものはありましたが。
貴重な写真、見れて楽しかったです。

chitetsu said...

昔溝ノ犬殿
黒い貨車が何両も繋がった列車を踏切で見るのが気付いたらあっという間の無くなったような気がします。
鉄道原風景が消えたのは寂しいですね〜〜

chitetsu said...

い さん
叔母は何気ない日常を収めようと歩き回ったようです。
これまでの捜索では、鉄道関係が写っていたのは渋谷と溝の口だけのようです。

chitetsu said...

シグ鉄さん
それは懐かしい思い出ですね。
わたしが向ケ丘遊園に行った時は豆電車は無くなっていました。
溝の口の駅は町田ほどでは無いものの離れていた気がします。

chitetsu said...

Pleidaisさん
本屋さんに模型雑誌を買いに行ってもらう時のドキドキ感、忘れられませんね。
雑誌を買って貰うと少し大人になった気がしました。

chitetsu said...

hiro3さん
ご覧いただき、ありがとうございます。
貨物扱いは今の電留線の辺りだったのでしょうか?
こんな駅でも貨物扱いはあった良い時代でした。

原口 悟 said...

 ミゼット(オート三輪)は昭和50年代前半はまだ残っていて、しばしば目にしていましたが、昭和50年代には珍しくなり、ほとんど目にしなくなりました。ただ、当時残っていたミゼットはおそらくハンドルが普通の車と同じ丸いハンドルになっており、写真の当時多かったと思われるバーハンドルではなかったと思われます。最近両親よりこの「バーハンドルのミゼット」の話を聞きました。
 貨車に無蓋車が多いのは多摩川の砂利採取の積み出しでしょうか。

chitetsu said...

ミゼットは愛好者が多く、以前は各地で見れましたが、さすがに最近は見かけなくなりました。
バーハンドルを始め考え方がバイクに近いのでしょうね。

oomori said...

はじめまして。28年間、溝の口、津田山を地元として暮らしていました。
私の記憶にある、溝の口はもう少し後の60年代後半くらいからですが、当時もまだ、貨物の扱いは多かったと思います。
現在の南口の道路脇には、日通の事務所もあり、いつもたくさんのトラックが停まっていました。
また、毎日10時と15時には、現在の西口側のポイントを使って、貨物の入れ替えを行っていました。
踏切で目の前をED16?が通過するのを見ると、結構迫力がありました。
その当時は、現在の南口はなく、南武線の駅の入り口は、1か所だけでした。
貨物入れ替え時には、大山街道の踏切も閉鎖されるので、入れ替えが済むまで、人も車も随分長い時間踏切で待たされていた記憶があります。
南武線の駅と田園都市線の駅の間は、闇市時代から発展したと思われる、ヤストモという今で言うとアーケードがありました。急ぐ人は、アーケード横の道を通り、ぶらぶらしたい人は、わざわざアーケードを通るというような状態だったと思います。

chitetsu said...

oomori さん
コメントありがとうございます。
私も当然ながら当時の溝の口駅の雰囲気は知らないのですが、ずいぶん今とは違った世界であったようですね。
今も南武線脇に残っているバラックの面影を残した飲み屋さん街にはたまに行きます。