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Monday, February 23, 2015

鹿児島交通 キハ300形

鹿児島交通のキハ300形は、国鉄キハ10形とほぼ同じ設計の自社発注車ですが、何と国鉄キハ10形より若干早く登場しています。
設計時は国鉄のキハ10系にまだ両運車が登場する前のことで、既に製造されていた片運のキハ16形などを参考に作られたそうです。
キハ300形はキハ07スタイルのキハ100形導入から約2年後の1954年の登場で、当時は旺盛な旅客需要があったことが想像されます。

鹿児島交通といえば、晩年まで国鉄線に直通運転をしていたことで有名です。
国鉄鹿児島本線への乗り入れは当初は国鉄の客車にて2往復行われることから始まりましたが、100、300形導入後は自社車両での乗り入れに変更、その後鹿児島本線のATS設置にあわせてキハ300型3両にATSが装備され、以降の乗り入れはキハ300形に限定されました。


キハ303 83.3.6 上内山田ー干河

冬枯れの山あいを行くキハ300形。

キハ303 83.3.6 吉利ー永吉

有名な石橋を手前に入れたこのカット、是非撮ってみたかったシーンです。

キハ303 83.3.6 西鹿児島

西鹿児島まで乗り入れていた鹿児島交通の気動車。
ドッキリするようなカラーリングと幌がないことから安物の模型のようで、同一設計の国鉄キハ10形とは印象が異なります。



キハ303 83.3.6 西鹿児島

国鉄の気動車と顔を並べた鹿児島交通の気動車。

キハ303 83.3.6 西鹿児島

西鹿児島駅に停車中のキハ303のサボ。
バランスの悪い手書きで『伊集院経由』と書かれているのがご愛嬌です。


キハ303 83.3.6 伊作

伊作駅に停車中のキハ303。
右手の側線はバラストどころか枕木さえ見えないという、凄まじい状態です。

キハ301 83.3.6 加世田

加世田の構内で休憩中のキハ301。


キハ302 83.3.6 加世田

同じく休憩中のキハ302。
この日はキハ100形と300形が一両ずつしかほぼ動いていなかったようです。

7 comments:

三等急電 said...

アーチの石橋を手前に入れたカット、GJ!
80年代まで続いた国鉄乗り入れ普通列車は、有田鉄道とともに貴重でした。
茨城交通湊線、常総筑波鉄道筑波線、三岐鉄道、遠州鉄道などの地方私鉄も国鉄へ乗り入れしていましたが、昭和40年前後に廃止となりました。
理由は不明ですが、国鉄が全路線にATSを導入した時期と重なることから、ATS装備を嫌ったことが一因ではないかと考えています。
また、国鉄キハ10系スタイルをした唯一の私鉄気動車として有名なキハ300形ですが、なぜこのデザインにしたのか不思議に思っています。
なぜなら、キハ10系は総括制御を生かすために貫通扉や幌を装備しましたが、キハ300形は幌を装備せず貫通式にした必要性に疑問を感じます。
それならば、他の多くの私鉄のように湘南顔にした方が恰好が良かったと思われます。
さらに、キハ100形を含めた9両が戦後あまり気動車を製造していない川車製というのも珍しい点です。
これ以外の戦後生まれの私鉄向け気動車は、キハ06を湘南顔にしたような羽後交通キハ2・3と前照灯2灯式の島原鉄道キハ5506・キハ2603くらいしか見当たりません。
国鉄向けも、キハ06形25両、キハ17形32両(全て初年度分)、キシ80形3両だけのようです。
戦前は日車に次ぐ気動車製造会社で、特に鉄道省は80両と全体の約1/3を占めていたことを思うと、あまりにも少ない気がします。
話が長くなってしまい、申し訳ありませんでした。

maru-ha said...

鹿児島交通も廃止になって30年くらいになるでしょうか。
列車の強烈な揺れ具合。加世田駅の廃車群、枕崎の乗換など、まだ記憶に残ってます。なんといっても、キハ07というか100形のギア・チェンジは初めて見たのでとても驚きました。
当時購入した車補は、今でも大事に保管して、見るたびにくすんだピンク色の車両を思い出します。

原口 悟 said...

 地方私鉄の戦後の気動車導入は、昭和20年代中頃のキハ07形類型車の時代、昭和20年代後半から30年代初頭のキハ10系類型車の時代、昭和30年代中頃から後半のキハ20系類型車の時代に区分できますが、鹿児島交通ではキハ07形の時代とキハ10系の時代の車があることになります。キハ10系の時代の車はキハ10系の考えの一部を導入したオリジナルの車の傾向が強く、南薩鉄道キハ300型も、「キハ16型をもとにしてオリジナルの両運車を作った」と解釈でき、キハ10系類型車の一連の流れにあると解釈できます。これに対してキハ20系類型車になると車両としての完成度が高まったためか、雄別鉄道、留萌鉄道、羽幌炭鉱鉄道の車など、キハ20系そのままに近い車が多くなります。これとは別に昭和30年代の別の流れとして、新潟鉄工の湘南型前面の車(夕張鉄道や三井芦別鉄道)や、日車型気動車(常総筑波鉄道、小坂鉄道)があります。
 地方私鉄では、キハ07型からキハ20型の類型車まで連続して車両を導入しているところが多いのですが、南薩鉄道ではキハ10系類型車導入で打ち止めになっており、しかも昭和30年より前に車両導入が止まってしまったのが気になる点で、経営環境の悪化が他の地区より早かったことがうかがえます。

chitetsu said...

元・いきもの部長さん
私鉄車輛の国鉄乗り入れは色々と面倒なことが多くて結局は大半がなくなってしまいましたね。
キハ300形が貫通式なのは独自設計も面倒であったのでは?と私は思うのですがいかがでしょうか?
川崎製の気動車が少ないのは戦後に棲み分けが行われたのではないでしょうか?

chitetsu said...

maru-ha殿
そうですね、廃止からずいぶん時間がたってしまいました。
あんな大きい気動車のギヤチェンジはさぞかし大変であったのでは?と思っちゃいます。
お手元の車補は子供バージョンですか?

chitetsu said...

元・いきもの部長さん
私鉄の気動車はどの時代をとっても、基本的には国鉄のコピー車両が圧倒的でしたね。
鹿児島交通はあの規模にしてはキハ100、300と一気に気動車を9両も発注した分、その後の増備の必要性がなくなってしまったのではないでしょうか?
晩年は随分と持て余していた感じでした。

chitetsu said...

最後のコメントは原口さん宛でした。
失礼しました。