当時通っていた中学では鉄道のクラブなどは存在せず(私の息子などはクラブの鉄三昧・・羨ましい限り)、たまたま話の合った友人を探すので精一杯でした。
そんな友人とどういう話をしたのか忘れてしまいましたが、1975年のゴールデンウイークの一日、千葉の電車を二人で見に行くことになりました。
本日はその時の思い出を超ヘタクソな写真で綴ってみたいと思います。
75.5.1 千葉 |
メーデーの早朝、どうやって千葉まで行ったのか記憶にありませんが、最初のショットはこちらからです。
当時は結構あちらこちらで未だ見られたロクサン改造のクモハ73形です。
75.5.1 千葉 |
300番代のクハ79もまだ矍鑠としていました。
奥には黄色い101系も居ます。
クハ79314 75.5.1 千葉 |
クハ79300番代の初期車です。
左手に同行の友人の姿が写っています。
サハ78510 75.5.1 千葉 |
電装解除をしたサハ78510に続くのは近代化改造を受けたモハ72。
何故こっちをちゃんと撮っていないんでしょうか。
75.5.1 千葉 |
でも、こんな電車も撮っていました。
この頃にして未だ非冷房のままの153系の急行『水郷』です。
それなりに今となっては貴重な写真であったりして。
75.5.1 千葉 |
・・・という感じで千葉駅での撮影は終了。
自分にとっては憧れのこの電車で外房に向かいます。
当時の千葉局の73系電車の行先表示はサボ受けは使わずに運転席内にこのように掲示されていました。
理由は、大阪からの電車が転入してきたことで彼の地の電車にはサボ受けが無かったからです。
でも何故成東行に乗ったのでしょうか?
キハ17191ほか 75.5.1 勝浦 |
行先から考えて当然に途中の大網で乗り換えたんでしょうが、全くそのあたりの記憶がありません。
そして厨房二人連れは勝浦で下車しました。
当時の勝浦には木原線(現・いすみ鉄道)の気動車基地がありました。
大原から出ている木原線の車庫が沿線に無いのも不思議です。
今もいすみ鉄道で走っている国鉄気動車の車体の所属区所表記が「千カウ」なのはこれに拘った訳です。
勝浦を訪れた目的も既に忘却の彼方ですが、このディーゼルカーを見たかったのかもしれません。
東京からディーゼルカーを見に行くとすれば千葉の2路線か八高・相模線ぐらいしか当時の日帰り旅行では思いつきませんでした。
写真に写っている車両のうち3両はキハ17系列ですね。
キハ30との凸凹編成も懐かしいです。
キハ17191 75.5.1 勝浦 |
こちらはこの日帰り旅行で唯一まともな写真、木原線のキハ17です。
75.5.1 勝浦ー鵜原 |
そして、最後はナナサン電車の走行写真に挑戦です。
当時の厨房にはまだ走行写真についての基礎知識はなく、どうやって撮るのか手探り状態でした。
当時どうしても海と茶色い電車を組み合わせたかった見たいです。
駅から1キロ弱を歩いてなんとか勝浦湾を望む山に辿り着きました。
やって来たのはロクサン改造クモハ73を先頭にした73系6連。
写真を見る限り車内はガラガラです。
75.5.1 勝浦ー鵜原 |
ひとまずは拙いながらも目的は達成したようです。
この後の帰りの記憶はほとんど消失、唯一三段窓の電車の唸りとその中でウトウトしていたことだけが記憶に残っています。
以上、お恥ずかし画像で綴った房総の茶色い電車の日帰り旅行記でした。
誠にお粗末さまでした~。
11 comments:
ほぼ新製冷房車で揃っていた幕張に押し寄せた153系非冷房車、冷房改造が遅々として進まなかった大垣にいた車がやってきたってわけです。
冷房車のほとんどは下関や宮原に取られてしまいましたとさ(大垣区訪問に続くかも)。
73は本線緩行からのが主に押し寄せてるんですよ。淀川や鳳はまだ3ドア車が多かったので。しかも、中原や豊田や東神奈川(103投入で相当減ってましたが)みたく、アコモ改造がなかったですから。
79938にサボ受けつけてるくせに。
113系統一で72系を追放したのに、その113後釜が4つドア車の209系とは皮肉な巡り合わせですね。
一部はクロスシート取替えや便所設置でアコモ改善なされているようですが、元来は短距離向けの通勤型ですので、長時間のお世話にだけはなりたくないものです。
房総や御殿場線に73の一党が走り出したときには、『だから国鉄なんて大嫌いだ』と罵った(と言うのはオーバーですが)ものでした。
カエルのおなかみたいにべとつくビニールでも、背ずりが低くて頭がゴっつんこするキハ10系のクロスシートでも、そっちのほうがここには正しい!と思っていました。
なにわさん
千葉は昔から大変冷遇されていましたね。
色んな余り物を押し付けられていました。
73は本当に付け焼刃な対応だったと思います。
電化=近代化とは別次元な対応でした。
趣味的には面白かったですが。
12号線さん
2ドアクロス⇒4ドアロング⇒3ドアセミクロス⇒・・・
本当に沿線住民からしたらどうしてくれるの状態ですね。
昨年千葉から大原まで京浜東北線!に乗って寂しかったです。
Cedarさん
国鉄得意の広域転配は功罪の正に『罪』の部分が露呈していました。
呉線の電化置き換えも同じでしたね。
転配されてゆく電車にとっても可哀想でした。
取り急ぎ、木原線の車庫が沿線に無い件について。
大原区は昭和32~34年に勝浦区に統合されたようです。その後外房線が電化されたため、勝浦区に木原線の車両だけが配置されるようになったと思われます。
RMライブラリー「国鉄レールバス」の車歴表にはキハ1000(→01)の配置が昭和32までは大原、34年以降は勝浦になっています。
一方、同誌「キハ07ものがたり」の昭和30年気動車配置表には大原区と勝浦区の両方があります。
ちなみに、大原区はキハ42000(→07)が4両とキハ1000が4両の配置となっていて、千葉で唯一の機械式気動車の配置です。
他区は、液圧式(当時の表現)または電気式です。
元・いきもの部長さん
木原線の車庫の件、コメントありがとうございました。
私はてっきり端から大原には車庫がなくて、電化後に勝浦の車庫に木原線だけ取り残されたのかと思っていました。
ちゃんと以前は大原に車庫があったのですね。
今の勝浦はどうなっているのでしょうか?
レールバスの元祖のようなキハ01が木原線で試用されたのも今キハ52を見に行っている人の中で知っている人は少ないのでしょうね。
1975年当時、私はまだこれだけ遠くまで遠征
できず、せいぜい東京都内しか行けませんで
した。
千葉の長距離ローカルに4扉車はたしかに合い
ませんが、気動車、急行とともに貴重な記録
だと思います。
懐かしいお写真ありがとうございました。
呉線と違って、房総ローカルの73系にはトイレ
はありませんでしたね。
つのすけさん
房総半島に4ドア車はやっぱり不似合いですね。
セミクロスの70系の方が似合いそうですが。
再び4ドア車が跋扈するようになったのは如何なものだろうかと思います。
少なくとも乗客体験してそう思いました。
>」千葉は昔から大変冷遇されていましたね。
>色んな余り物を押し付けられていました。
73系とか非冷房の101系からそういうイメージがあるのかも知れませんが、実際には113系1000番台、165系、183系と新製車が投入され、その後も103系、201系、205系、255系、E217、E231、E233、E235、E257、E131等々、色々新車が投入されています。
113系、153系、209系、211系みたいな転属車もありますが、言われるほどではないと思いますね。
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