中学生時代に撮影したどこにピントが合っているのかわからないような画像を見ていて、ちょっと今昔写真を撮ってみたくなりました。
74.10.17 石神井公園ー富士見台 |
こちらは1974年当時の環状8号線との踏切です。
どこにでもありそうな普通の踏切で、これが後の大動脈になるとはとても思えない踏切でした。私が高校生の頃もこの状態で、踏切越えて荻窪まで自転車で通学していました。
21.2.23 練馬高野台 |
こちらが今の同じ場所です。
昔の写真でおじさんが立っている場所が、今信号機の建っている場所です。
線路は高架化され、道路も片側2車線となりました。
背後にあった学校も順天堂大学病院に変わりました。
こちらは同じ踏切の反対側から石神井公園方向を見たところです。
当時この場所は梅を栽培する畑でした。その梅の間から写真を撮っています。電車は451系ですね。
今の同じ場所です。
多分左のバスのあたりが梅畑であったかと思います。バスももうじき色が変わってこれも懐かしくなるのは時間の問題です。
上の写真ではいまひとつピンと来ないかと思いますので、ホームの上から撮ってみました。若干角度は違うものの、ほぼ同じ場所です。
電車は運用離脱が遂に始まった7000系でも6本しかない10連口です。
こちらが現在の同じ場所。
団地は健在で、運よく駅前団地となり交通至便な立地となりました。
11 件のコメント:
とても環八と交差する踏切には見えませんね!
古い枕木を利用したこげ茶色の柵や子供の描かれた交通安全の看板も懐かしいです。
架線柱も立派ですね。
昔は電車の編成全体を俯瞰できる場所がいくつもありましたが、高架となった今では電車の窓上ぐらいしか見えないのが残念ですね。
環8ってのは結構遅くまでブツ切れ開通だったりして、特に鉄道との交差部は遅れましたね、目蒲線(多摩川線)との交差部なんかずいぶん遅れてました。西武は立体化に金出さないから踏切が多いんだ、と言われたのも昔のことですね。
練馬区立小学校に入学した小生(2年生で転校してしまいましたが)は、椎名町、東長崎、江古田、桜台、練馬・・・と暗記していましたが、「練馬高野台」を知りませんでした。なるほど、新設駅だったのですね。
ここの踏切は、厳密には環八ではなく笹目通ではないでしょうか??
石マロさん
今となっては別の世界の風景になってしまいましたね。
踏切まわりの諸設備が、おっしゃる通り懐かしいですね。
昔が良いとは言いませんが、懐かしいです。
Cedarさん
環八はなかなか全線開通に漕ぎつけませんでしたね。
目蒲線区間で突然道路が無くなっていた記憶は鮮明です。
OER3001さん
私もここに駅ができるとはびっくり、というのが感想でした。
西武線では数少ない新設駅ですね。
匿名さん
地元でも環8という人が多いです。
厳密にはおっしゃる通りですが。
懐かしの光景ですねぇ。池袋線の501系で飯能、さらに701系で秩父へも行きました。
環状八号線は、母の車の助手を務めながら、中学1年生くらいの時に世田谷から南田中小学校まで行ったことがあり(たしか文学教育関係の集会があったためと記憶)、四面道交差点の渋滞とか(これは今でも?)、井荻駅の踏切がなかなか越せないとか、南田中の手前で丁字路になってしまうとか、今からは考えられない「農道を広くした」的イメージのところがありましたね。
もっともそのちょっと前までは、小田急線も踏切だったので、当時は当たり前の景色だったのですが、さすがにあれからン十年(笑)。ずいぶん感じも変わりましたね。定点撮影の重要性を感じます…。
すぎたまさん
私も母親の実家が千歳船橋なので、環8の変化を長らく見てきました。
高校生時代は片側一車線の環8を自転車通学していて、なかなか開かない井荻の踏切とか懐かしいです。
いまや隔世の感がありますね。
はじめまして。懐かしい写真をありがとうございます。自分の記憶より道幅がずっと狭いことに驚きました。
この道は厳密には環八ではありませんが、地元では環八と呼んでいましたし、南田中アパートのなかの古い案内図には、いまでも環八と書かれています。架道橋の名前からするに、高架化時の名前は補助134号線だったようです。谷原交差点以南は、補助134号線が開通するまで笹目通りとは呼んでいなかったと思います。
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