古い建物や街並みをめぐる紀行・地方電化私鉄以外の駅関係の写真については兄弟ブログ(「古い建物と街並みをもとめて」・アドレスは右側の兄弟ブログらんの「古い建物と街並みをもとめて」をクリックしてください)にアップすることにしました。  こちらも是非ご覧下さい(但し、こちらのブログは駅の写真以外は鉄分ほとんどありません。悪しからず)。

2021年4月29日木曜日

越後交通 与板 1993年。

1993年に訪問した時の越後交通長岡線です。

前回書きましたように1975年の廃止後も大河津までの区間に限ってはほぼ全線にわたって線路どころか架線柱さえ残っていました。以前から気になっていた同廃線跡ですが、なかなかタイミングが掴めず、結局廃止から18年経ってから訪問したわけです。


噂に聞いていとおり、越後平野を延々と線路と架線柱が伸びています。

これは廃線というより休止線のような風情ですね。




沿線の要衝のはずの与板駅。
電車代替のバスが停車中でした。
ところがこの与板駅、肝心な市街地からはかなり離れた位置にあり、どう見ても便利な立地とは言えません。
長岡鉄道は与板の起業家などが出資して設立されたと書かれていますが、どう見ても鉄道は町からは忌み嫌われたとしか思えない立地でした。


与板の市内を走る軌道。

併用軌道の様な線路が狭い町裏を走ります。

この辺りの雰囲気は実に良いのですが、逆に言うとこんな場所しか線路を通してもらえなかったとも言えます。




線路をちょこっと歩くとこのような街並みが結構な規模で続きます。
でも、駅はありません。あとで、駅を新設できそうなものですが何か地元との折り合いが良くなかったのでしょうか?
不思議です。
与板の駅立地の悪さが長岡線の命を縮める結果になったとも言われています。




ここをこのような電車や電気機関車が走っていた時代を見てみたかったです。
廃止は1975年ですから、私は中学生。
ちょっと頑張れば現役時代に届いたかも知れないと思うと残念です。



こちらは1993年当時の日通事務所です。この建物の様子はこれから28年たった今年も同じ雰囲気です。




線路は道路との交差する部分をのぞいて大河津までこんな感じでずっと続いていました。



私が体験した廃線跡でもここは特別な存在でした。

6 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

なんとも不思議な光景ですね。
この目白の闇将軍が経営参画してた越後交通ですから、なにか裏があ🄬のか?などと勘繰りたくなります。

chitetsu さんのコメント...

Cedarさん
本当に不思議な光景です。
それもほぼ全線にわたってこの光景が続いていたというのも驚きです。
目白の親分が何か考えていたのでしょうか?

伊豆之国 さんのコメント...

越後交通長岡線は、現役時代は知らず、昭和62年に母の疎開先であった柏崎を訪れ、信越線の長岡~柏崎間を乗ったとき、来迎寺駅でまだ貨物線として盛業中だった長岡線を見たことが唯一の出会いでした。
長岡線の廃線跡の驚くべき光景は、写真に出ている当時の翌年、平成6年(1994)に出版された"Twilight Zone"を読んだことで知りました。その頃は、西長岡~越後関原間が廃線となり、西長岡のスイッチバックもなくなり、残った来迎寺~西長岡間で細々と営業を続け、それも余命いくばくもない、という状況になっていた時期になっていたようでした。その本を見ると、架線柱やレールはもちろん、駅名板や、「雪隠」まで残っていた駅もあり、まさに「今にも電車がやってきそうな」光景で、「いざというときにはいつでも路線を復活できる」というのは、その頃にはまだ「大真面目な話」として残っていたのでしょうか。
長岡線と越後線と交わっていた「大河津」駅は、現在の「寺泊」駅ですが、「寺泊」駅は今の駅が「元祖」であり、長岡線が開通して寺泊町の中心部に駅ができた時に、そちらに「寺泊」の駅名を譲って「大河津」になり、長岡線が廃線になった後、合併で寺泊町内になっていたその「大河津」駅が元の「寺泊」に戻った、という経緯がありました。その寺泊町も、与板町も、平成の大合併で栃尾市などと共に長岡市に合併され、長岡線が通っていた区間は全て「長岡市内」になってしましました。
「与板(與板)」駅も、長岡線のは実は「二代目」であり、先に越後線が開通した時、今の「小島谷」駅が「與板」駅を名乗っていて、駅前から当時の與板町の市街地まで新道を通し、「與板町の玄関とする」ことを条件に、與板町外にできた駅を「與板」駅と名付けた、と言い、その後長岡線が開通して與板町内にも駅ができることになって、初代「與板」駅は付近の集落名を取って今の駅名「小島谷」に改称されたといいます(「越後の停車場」(昭和57年)より)。
余談ですが、越後線は海に近いところを走っているように見えますが、実は海が見える箇所はほとんどないようで、ずっと海から数キロ離れた場所を通っており、寺泊も出雲崎も、町の中心である海辺からかなり離れた場所にあります。先の与板もそうですが、これは住民が反対したからではなく、海辺の地形・地盤が悪く工事が難しいので、やむなく平野が広がる内陸部を通した、ということらしいです。
長岡線は、信濃川に橋を架けられず、長岡駅・長岡市の中心部に乗り入れできなかったのがやはり致命的だったようです。

chitetsu さんのコメント...

伊豆之国さん
大河津駅は何度も駅名が変わるタイプの駅ですね。
越後線は地形的に海沿いから内陸を走らざるを得ないと思いますが、長岡線はそれとは条件が違うのではないかと私は思います。

三等急電 さんのコメント...

越後交通長岡線の旅客営業廃止直前に長岡へ行きましたが、同時に廃止になった栃尾線を優先したため、残念ながら訪ねられませんでした。
ところで、越後交通のバスは越後屋カラーですね。
一方、電車は西武カラーでした。

chitetsu さんのコメント...

三等急電さん
両線は同じ時期に廃止になっていますね。優先順位はどうしても栃尾線になりますね。駅から始発駅が遠いのも難点ですね。