79.1.11 中原電車区
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中原電車区にて、新旧通勤電車です。
国鉄通勤電車のデザインの変化が良くわかります。
クハ101-11 79.1.11 中原電車区
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夕陽を浴びて出区を待つクハ101ほか6連。
改めて見ると、これはこれで端正なお顔です。
クモハ101-119 79.3.6 武蔵中原 |
武蔵中原付近の踏切にて。
クモハ40033 79.3.6 中原電車区 |
武蔵中原では、クモハ40形が構内入換をしていました。
牽引されるのは冷房改造車ですね。
結構走っていた気がするのですが、意外と冷房車は撮っていません。
クモハ101-71 79.3.6 矢向 |
矢向にて。
サハ101-19 79.3.6 矢向 |
上の編成の中間にはスカイブルーのサハ101形が組みこまれていました。
モハ101-158 79.3.6 矢向 |
モハ101形。
サハ100-26 79.3.6 矢向 |
こちらもスカイブルーのサハ100形。
京浜東北線からやって来たのでしょう。
クモハ100-131、クモハ100-68
79.2.5 川崎
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101系が天下だった南武線でした。
14 件のコメント:
首都圏の各電車区から集められた“終の住み家”感のある中原区でしたが、関西線水害被害に対する応援車両も多数排出していますね。
芝生將行氏のサイトで「天ヒネ」表示に改められた画像も確認できます。
http://kokuden.net/mc53/shinseinodensya-HP/sakuin-1/sub101/sub101-M52Mc0-47/sub101-M52Mc0-47.htm
懐かしい南武線の101系の画像、ありがとうございます。
南武線には他に、オール901番の試作編成4連もありましたね。
当時は中央線の103系投入、京浜東北線、赤羽線の103系化などで、
南武線の車両の入替も激しかったですね。カナリア、スカイブルー、
オレンジと3色が走っていました。
サハ101-19、サハ100-26は京浜東北線所属ではありませんでした。
中央線 西ミツ からの転属車です。
クモハ100-131は赤羽線にいましたね。懐かしいです。
12号線さん
101系はこの当時は南武線が最後の牙城的な状態でしたね。
鶴見線はまだ73系が踏ん張っていました。
関西線の水害応援は国鉄だからできたことですね。
お知らせいただいた応援回送画像見てそう思いました。
最初のカット、ジャンパ線があるのでクモハ101(またはクハ101)だと思います。ここは中間にクモハやクハが入ったり、両端がクハだったり、イレギュラーな編成が多くて楽しめました。現場はなにかと大変だったでしょうね。
モハ1005-モハ1006-クハ2003 さん
南武線にはいろいろな101系が走っていましたね。
3色編成もあった気がしますが、当時はモノクロフィルムなので記憶があいまいです。
スカイブルーと記憶していたサハもご指摘の経緯だとオレンジ色だったはずですね。
もう記憶が朦朧としておりますので、違っていたらごめんなさい。
モハメイドペーパーさん
ご指摘、ありがとうございます!
確かにそうですね。
向きからしてクモハかクハの101ですね。
自分のメモが間違っているようです。
配置表見たら101-190は中原配置じゃないようなので自分のメモも信ぴょう性低いなあ・・・。
ひとまず、車番消しときます・・・。
南武線はいろんな組成があったので、確かに現場は大変だったでしょうね。
いつも楽しませていただいています。次はいよいよ関西の101ですか?楽しみにお待ちしております。
60 kumohaさん
ご愛読、ありがとうございます^_^。
次回は予想通りの展開と思いますが、ちょっとプアーなので期待なさらないで下さいね。
南武線の101系初体験は小学生の頃で、オレンジ色の6連の快速電車(川崎⇔登戸)でした。
当時の南武線の101系は快速運用のみだったように思いますが、快速だからさぞ飛ばすのかと思って、
かぶり付いていたところ、50~60Km/h程度で流す走りで、ガッカリした思い出がありますが、
103系とは違う、機械式の速度計が新鮮でした(ハマ線のクモハ73も後付けっぽい電流式のものでしたので)。
あと、1980年頃でしたが、たまたま乗車した101系で車内放送が全然無かった為、
故障かと思い天井を見上げたところ、何とスピーカー自体が付いて無かったのを目撃したことがあります。
恐らく故障のため取り外して修理中で、出庫までに取り付けが間に合わなかったのでしょうが、
さすが絶対に新車は来ない南武線クオリティーだと思いました(実際は弛み国鉄のせいですが)。
101系は、通常お茶の水辺りの中央・総武線の乗車が多く、中央特快でも余裕のある日中の乗車ばかりで、
最高でも80Km/h程度の走りだったため、90Km/h以上の高速運転を経験したのは大部後になってからでした。
しかも、それは101系の主力線区ではない、京浜東北・根岸線や内房線でのことで、その時に感じたのは、
高速域では103系の爆音ほどの五月蠅くなく、道床の悪い区間のある根岸線内で飛ばした場合、
ガラ空きの103系ではバウンドするような激しい縦揺れがありますが(酷電時代に誕生した103系だけあって、
定員無視の激混み時にこそ威力を発揮するサス設定の為、同区間でも乗り心地がとても良くなります)、
しかし101系は、ガラ空きの時でも103系のような激しい縦揺れも無くソフトで、モーター音と相まって、
元気な少年みたいな103系に対し、女性的と言うか、おとなしい感じの電車という印象を持ちました。
ジモティーさん
南武線の快速は本当に鈍足でしたね。
あれじゃ廃止になってわけですね。
そんな南武線も新車が投入されるようになったのも隔世の感があります。
101系はおっしゃるように103系とは挙動が違い、しなやかに走る気がします。
ドアやブレーキの空気音も101系の方が断然好きでした。
そんなことを学生時代の御茶ノ水までの区間で良く感じたものです。
幼少の頃から現在に至るまで普通の生活での行動範囲の関係で、高崎線から東海道線への南北縦貫が常用だったため、中央線―総武線系統の東西縦貫がメインだった101系は縁が薄い形式でした。この状況が一変したのが、地元の秩父鉄道に101系が入って「1000系」となったことで、一転して「秩父鉄道1000系」としてなじみ深い車になりました。鉄道コレクションで秩父鉄道1000系がいろいろ発売されましたが、様々な加工をして12本36両がそろいました。遡ると「モハ90形」だったデハ1006-1106も、入線時の原型として、中央窓が埋め込まれた運転台仕切り、内側に寄ったドアコック蓋を表現しました。
ちなみに、首都圏の101系は、昭和40年代にドアコック蓋がユニット化(平成に入ってからの103系更新車で見られた角型の形態)された車がいます。秩父鉄道に移籍した車ではデハ1002が該当車で、上記のように一見新しい形態なのですが、同時期の首都圏のモハ72、クハ79920台(ドアコックが車体に移設された72937, 79934以降の車)、新前橋、三鷹電車区の70系の昭和25年型更新車(ドアコックが車体に移設された車)にも見られており、これらの車と同時期の工事と考えられます。
101系では、パンタ横の「下駄ランボード」が「我が心の飯田線掲示板」で話題になりました。最初、「屋根布をはがして中の構造がむき出しになったのではないか」と考えられたのですが、新製時の部品の設計図が報告され、前期は「角材を削りだしたもの」、後期は「L字型アングル」であることがわかり、「中の構造」説はほぼ否定されました。このため、割と後期になってから交換したものであることが確実になりました。ちなみに「下駄」の足の位置は屋根の垂木の配置に規制されており、同様にパンタ台の位置も「垂木」に合っているため、「パンタ台の位置」と「下駄の足の位置」は必ず合っています。この前後の足の間につっかえ棒として足が1本か2本差し込まれています。
原口さん
秩父にモハ90の一部も行っていたとは知りませんでした。
101系初期の車輌は運転室の仕切り窓が大きくて開放的で好きでした。
元モハ90形のデハ1006は武蔵野線用の1000番台だったので、入線当時は1000番台特有の、天地の高い運転室仕切り窓と中央窓が埋め込まれた仕切りを残しており、当時の乗車時にも確認しました。この仕切りは後に標準化されて他の車と同じ、後期型の下辺がかさ上げされた窓が2枚並ぶ形態に変わっています。同時に他の前期型特有だった形態も標準化され、前期型だった証拠はドアコック蓋の位置だけになっていました。
2枚目のクハ101-11の写真ですが、解説の車号と撮影年月日の間のスペースが抜けており、一見「クハ101-1179」と読めてしまします。
原口さん
モハ90の標準化は残念でした。
試作車の姿で量産されたら国電のその後のデザイン展開も変わっていたのでしょうね。
101-11、直しておきますね。
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