ということで北陸からちょっと脱線して今回は江ノ電です。
その時(80年の冬)の江ノ電訪問の目的は、いよいよ命脈が尽きようとしていたタンコロの最後の活躍を見るためでした。
タンコロとは江ノ電の100形のことで、単行でしか走れない電車なことから名前がつけられた愛称のようです。
100形は新造グループで10両あり、うち6両は互いにコンビを組んで連接車に改造されたり、2両は電動機を600形に譲ってそのまま廃車になったりで、80年の最期を迎える時には107と108の残すところ2両にまで減っていました。
108 80.12.18 稲村ヶ崎ー七里ガ浜 |
ここでタンコロがやって来るのを待ちます。
108 80.12.18 稲村ヶ崎ー七里ガ浜 |
既に他の列車は2両か4両編成になっており、輸送力の面でも単行の電車が走れるような余地は既になくなっていました。現在は殆んどが4両編成で、昼間も混雑していますから、随分と変わったものです。
108 80.12.18 稲村ヶ崎ー七里ガ浜 |
道路を走る軽自動車も懐かしいですねえ。
1002(左)、108(右) 80.12.18 峯ヶ原信号場 |
この時の記憶はほとんどないのですが、恐らく上の写真を撮った後に走って追っかけたのだと思います。今改めて地図を見るとそれなりの距離があるので、自分を含めた仲間が随分頑張って走ったのか、電車が随分のんびりと走っていたのか、それともその双方が理由で間に合ったのかもしれません。
左から601、303、108 80.12.18 江ノ島 |
結局タンコロの走った姿を見れたのはこの一回だけに終わってしまいました。
105 70.7 鎌倉 |
時計を更にあと10年戻した1970年の夏のことです。
子供の時から、家族の夏の海水浴は一大イベントでした。
大阪に住んでいた時は紀勢線の白浜が定番でした。
そして東京に引っ越してきたこの年からは材木座にあった叔母の会社の契約保養所(と言えば格好良いですが、実態はただの民宿)に決まっていました。
途中からは車で行くようになりましたが、最初の二年ぐらいは電車で行っており、鎌倉の駅から江ノ電にちょっとだけ乗ったのだと思います。
当時は既にかなり海が汚染されており、海に入った後に見ると水着にも浮き輪にも黒い油が付着していたのを今もはっきりと覚えています。
今こんなことがあったら海水浴場召し上げでしょうね。
時代がまだ鷹揚だったのでしょうが、感心できた話ではありません。
さて、写真の話に戻ります。
その時の超お恥ずかし画像が上の105号です。
あまり意識していなかったのですが今回ネガをひっくり返したところ、どうもこれが自分でカメラを手にした最初の写真のようでした。
つまり、この一枚が自分の鉄道写真との付き合い第一号の記念すべきカットのようです。
当然ピンボケ&斜め画像ですが、多少見られる程度にいじってみました(・・・みたつもりです)。
因みにこの105号は新造100形グループ唯一の川崎車両製の異端車で、そのせいかこの年70年に玉電から入線した600形に電動機を譲る形で廃車になったとのことです。
354 70.7 鎌倉 |
ということで、最後は自己満足ネタでした・・・。
2 件のコメント:
タンコロの走行写真を楽しませてもらいました。
望遠のせいでまるで単車のようですね。
私が訪問した1963年は4両が江ノ島や極楽寺で休んでいて引退間近かと思っていました。
あれから17年も経ってまだ活躍していたのですか !
私も車両がすっかり変わってしまった今の江ノ電を先月ちょっとだけ訪問しましたが、地方私鉄の活気に惚れぼれしました。
タンコロはkatsuさんが行かれた1963年でも脇役だったのですね。大人しいデザインが個人的には好きな電車です。
久しぶりの江ノ電訪問、katsuさんのブログ見て行く気になりました。
1960年代のポールの姿や腰越あたりの風景、我が目で見てみたかったです。
地方私鉄がどこでも苦戦している中、廃止まで検討された江ノ電の元気な姿を見れて楽しかったです。
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