玉の井(たまのい)は、戦前から1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで、旧東京市向島区寺島町(現在の東京都墨田区東向島五丁目、東向島六丁目、墨田三丁目)に存在した私娼街(戦後は赤線地帯)である。永井荷風の小説『濹東綺譚』、滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』の舞台として知られる。
ウイキペディアからでした。
そんな経緯もあって、住居表示も駅名も変えられたのでしょう。
今、東武博物館にやって来るお客さんは知らない人も多いかもしれません。
モハ7809 80.5.29 玉ノ井 |
親子連れの前に初期型78系の準急太田ゆきが入線して来ました。
モハ7800 80.5.29 玉ノ井 |
こちらはトップナンバーのモハ7800です。
初期型78系の一部の車両は、パンタグラフが後方に移設されています。
モハ7800 80.5.29 玉ノ井 |
78系の初期車は最後まで窓枠が木製でした。
クハ800(左)、モハ7845(右) 80.5.29 玉ノ井 |
顔を合わせた初期車と量産車。
細部のディテールが結構異なります。
モハ7894 80.5.29 玉ノ井 |
こちらは標準的なカステラ電車。
クハ5401 80.5.29 玉ノ井 |
8000系みたいな更新車も本線運用で走っていました。
モニ1472 80.5.29 玉ノ井 |
荷物電車もやって来ました。
モニ1472 80.5.29 玉ノ井 |
この頃はオリジナルのデカパンでした。
ED4021 80.5.29 玉ノ井 |
貨物列車もやってきました。
東芝戦時型のED4021です。
ED5061 80.5.29 玉ノ井 |
何故かタイミングが悪く、やって来た二本の貨物列車はどちらもヨしか繋げていませんでした。
10 件のコメント:
80年、大学入学時。
時の流れがゆったりとした時期で、
いい感じです!
やまぐち号さん
そうですね、どこか時間の流れがゆったりしていました。
確かこの時はソフトボール大会の行き掛けの駄賃だったと思います。
東武とか京成はあまり縁のない電車で、子供の頃には太田、加須、幸手なんていう行く先は、丸っきり見当のつかない別世界でした。
もう少し世の中がわかってくると、本所、深川、向島と川向こうをひとくくりにした差別用語を覚えました。
玉の井、いい駅名ですね。
赤線の歴史に関係無く、東京じゅうの由緒ある地名が田舎役人のせいで消えました。
総武線の北側はそれなりに歴史ある地域で、歩いて見るとなかなか面白いです。
5000系はまだ車体きれいですね。東上線に移動してからブレーキシュー鉄粉によるカステラ装飾になりました。
木枠窓の78ですが、日除けもヨロイ戸にてクラシカルな装備を後年まで保っていました。
またこの初期車だけつり革が長い所為か、一つ前の内装色である若草色の革を使っていたのを記憶の欠片にございます。
モハメイドペーパーさん
東武線は山手線に接していなかったこともあって、自分もあまり縁が無い電車でした。初めてちゃんと訪問したのは大学生になってからでしたが、沿線の雰囲気はどこか国鉄っぽい印象を受けました。
Cedarさん
昔ながらの地名には良い響きのが多かったですね。
敢えて地名変えなくて良いのに、残念ですね。
最近の町村合併は更にヒドイですね。
もう止めてくれ〜、って感じですね。
12号線さん
5000系の本線時代は短命でしたね。
木枠窓の初期車は全体がすこし丸いような印象があって、個人的にお気に入りでした。
吊革の若草色・・・そう言えばそんな気も。
随分記憶が薄れてきていますね。
懐かしい車両たちですが、考えてみると駅名だけでなくを走る車両まで変わってしまいました。
同一形式で今でも残っているのは、亀戸線用8000系の送り込み回送だけではないでしょうか。
当時は特急・有料急行・快速以外で通過するのは荷電や貨物列車でしたが、現在は田園都市線・半蔵門線直通列車になりました。
78系は見る分には良いのですが、ラッシュ時それも暑い夏に乗るときは最悪でした。
良く見ると5000系だけ4連ですね。準急なので北千住迄は混んでいたかもしれません。
三等急電さん
この頃走っている電車はほぼ総入れ替えになっちゃいましたね。
本線準急の4連はいかにも短いですね。
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