少年時代から大の電車好きです。 物心ついた時には踏切の横に立って電車を見ていました。 以降、全国各地に吊り掛け電車を追いかけて歩いた記録を中心に、模型やストラクチャー探訪記などを気まぐれに載せてゆきたいと思います。
西武池袋線の池袋から椎名町駅の間は住宅が密集していて、細い道路が交錯しています。
その中でも変わった踏切として有名なのがYの字になった踏切です。
ほ~ 珍しい踏切ですね。道路が2本あるから、踏切も2箇所でカウントするのでしょうか?
鉄道ピクトリアルの2002-4増刊西武鉄道大特集から「西武鉄道沿線観察」という記事の中に踏切に関する文章がありました。踏切名称「池5号」踏切※警報器の裏側のXの部分に表示されていますここは2つの道路をまとめて総称してます。したがって例外的に1か所として扱います。かつてYoutubeに投稿されたほかテレビ朝日系の「タモリ俱楽部」でも紹介されて一時期話題になったそうです。
椎名町周辺は、昭和20年代に住宅地化が進んだ場所なので、路地というほどではないものの、幅が狭い道路や踏切が割と不規則に通っていますね。ホームのすぐ横にあった大きめの踏切が撤去されたのは、ちょっと驚きました。池袋ー椎名町間は線路もくねくねと曲がりくねっていますが、大正4年開通当時は田畑が広がる平坦な地形だったはずなのに、なぜそのような面倒な線形になったのか不思議です。
まろねふさんきっと、そうでは無いでしょうか?
taiitis さん詳しい解説、ありがとうございました。
緑の猫さんこの区間は他の区間とはちょっと違った雰囲気の場所が多いですね。線形も用地取得とかが絡んでいたのではないでしょうか。
taiitisさん詳しい解説をありがとうございました!こんな施設など、これまでの紹介を見ていると、西武沿線は何だか楽しそうだと感じます。
西武池袋線の池袋と椎名町の間には、戦前「上り屋敷」という名の駅があり、この駅と目白駅が近かったので、池袋駅での山手線からの面倒な乗り換えを避けて、目白駅からこの「上り屋敷」駅の間をショートカットして歩いた人が多かった、という話を、江古田の近くにあった女学校(今は都立高校)に通っていた母から聞いたことがありました。西武線の北側(池袋寄り)と南側(目白寄り)とでは街の雰囲気ががらりと変わり、「池袋で怪しい連中に追っかけられても、西武線の踏切を越えて目白方面に逃げ込めればもうこっちのものだ、奴らは踏切を越えられない」といった意味のことが、もう昭和末期に書かれた本ですが、泉麻人氏の「東京23区物語」という本の中に書かれていました。
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ほ~ 珍しい踏切ですね。道路が2本あるから、踏切も2箇所でカウントするのでしょうか?
返信削除鉄道ピクトリアルの2002-4増刊西武鉄道大特集から
返信削除「西武鉄道沿線観察」という記事の中に踏切に関する文章がありました。
踏切名称「池5号」踏切
※警報器の裏側のXの部分に表示されています
ここは2つの道路をまとめて総称してます。したがって例外的に1か所として扱います。
かつてYoutubeに投稿されたほかテレビ朝日系の「タモリ俱楽部」でも紹介されて一時期話題になったそうです。
椎名町周辺は、昭和20年代に住宅地化が進んだ場所なので、路地というほどではないものの、幅が狭い道路や踏切が割と不規則に通っていますね。ホームのすぐ横にあった大きめの踏切が撤去されたのは、ちょっと驚きました。
返信削除池袋ー椎名町間は線路もくねくねと曲がりくねっていますが、大正4年開通当時は田畑が広がる平坦な地形だったはずなのに、なぜそのような面倒な線形になったのか不思議です。
まろねふさん
返信削除きっと、そうでは無いでしょうか?
taiitis さん
返信削除詳しい解説、ありがとうございました。
緑の猫さん
返信削除この区間は他の区間とはちょっと違った雰囲気の場所が多いですね。
線形も用地取得とかが絡んでいたのではないでしょうか。
taiitisさん
返信削除詳しい解説をありがとうございました!
こんな施設など、これまでの紹介を見ていると、西武沿線は何だか楽しそうだと感じます。
西武池袋線の池袋と椎名町の間には、戦前「上り屋敷」という名の駅があり、この駅と目白駅が近かったので、池袋駅での山手線からの面倒な乗り換えを避けて、目白駅からこの「上り屋敷」駅の間をショートカットして歩いた人が多かった、という話を、江古田の近くにあった女学校(今は都立高校)に通っていた母から聞いたことがありました。
返信削除西武線の北側(池袋寄り)と南側(目白寄り)とでは街の雰囲気ががらりと変わり、「池袋で怪しい連中に追っかけられても、西武線の踏切を越えて目白方面に逃げ込めればもうこっちのものだ、奴らは踏切を越えられない」といった意味のことが、もう昭和末期に書かれた本ですが、泉麻人氏の「東京23区物語」という本の中に書かれていました。