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2014年6月12日木曜日

蒲原鉄道 五泉

先日の汽車旅行記(こちら⇒週末は汽車に乗ってきました)で汽車の車窓から久し振りに見た蒲原鉄道の五泉駅の今昔対比画像を探した折に、折角なので他の画像も一緒にスキャンしてみました。
と言うことで、本日は晩年の蒲原鉄道五泉駅の風景です。

蒲原鉄道は全線の大半の部分を1985年に廃止して、残った4キロ強の短い区間だけで細々と営業を続けていましたが、こちらも21世紀を待たず1999年に廃止となりました。
この手の路線短縮は一旦手を付けるとその後全線廃止までの道のりは数年程度と早いことが多いのですが、こちらの場合はどちらかと言うと残存区間が長生きであった部類でしょう。

モハ61 98.11.24 五泉

村松からの朝の2両編成から吐き出された乗客が磐越西線のホームに向かっています。
村松から五泉に向けての通勤通学客はそれなりにはあったようです。
地方私鉄が一日で一番活気づくひと時です。

モハ61 98.11.24 五泉

ひとしきり乗客が降りると辺りはふたたび日常の静かな風景に戻りました。

モハ61 98.11.24 五泉

懐かしい光景ですね。

モハ61 98.11.24 五泉

戻りの電車はのんびりとしています。

クハ10 98.11.24 五泉

こちらは跨線橋から見た蒲原鉄道のホームと磐越西線の気動車列車。
手前に写っているのはクハ10を繋いだラッシュ時編成です。

 98.11.24 五泉

上の画面奥の部分です。
終端部はこんな感じになっていました。
貨車が所在無げに留置されてました。

モハ71 98.11.24 五泉

小雨の降る五泉の駅構内に進入する西武からやってきたモハ71。
背後の山は既に雪化粧しています。


クハ10 98.11.24 五泉

朝の二両編成。
ご存知国鉄払い下げの気動車を改造したクハはお隣の新潟交通にも在籍していました。
他形式が末尾『1』なのに対し、何故かこのクハ10だけ末尾が『0』でした。


モハ61 98.11.24 五泉

相方のモハ61。
こちらは西武鉄道からやって来た電車です。

モハ71 99.4.5 五泉

こちらは廃止の年の春の風景です。
この日は新潟交通全線廃止の翌日に訪れたものです。
この年、新潟県内の地方私鉄は一気に無くなってしまった年となってしまいました。

モハ71 99.4.5 五泉

五泉のカーブを曲がったらあとはひたすら村松に向かって殆ど一直線の線路が延びていました。

モハ71 99.4.5 五泉

このモハ71とクハ10は廃止後に沿線の廃線跡付近に個人が保存をしていましたが、その後所有者逝去されてから、残念ながら解体されたとのことです。
管理しきれなかったのか、周りに理解者がいなかったのでしょう。
・・・・・悲しいことです。


12 件のコメント:

原口 悟 さんのコメント...

クハ10ですが、昭和60年の部分廃止以前は連結相手をしばしば変えていたのですが、末期はモハ71と実質的に固定編成となっており、RP98-4増刊号「東海、甲信越のローカル私鉄」でもモハ71について「クハ10と実質固定編成となったために走る機会が極端に減ってしまった」と記載されています。写真は1998年のことですが、モハ71が単行で運用され、クハ10がモハ71以外の車と編成を組んでいるのは当時としては非常に珍しい機会をとらえたと考えられます。モハ71の写真で、後位がとらえられているものがありますが、貫通路のところに幌枠が付けられているのがわかります。また、上記の理由から、この時期のモハ71の後位の詳細がわかる写真は非常に貴重なものです。

chitetsu さんのコメント...

原口さん
クハ10の相手は基本モハ71でしたね。
モハ71のパンタ無し側は唯一幌枠がついていたのも納得できます。
モハ61との編成は考えてみればこの時しか見ていません。
恐らく相方が検査中だったのでしょうか?

阪鉄車輌 さんのコメント...

学生のころ、まだ加茂-村松間が廃止される前に蒲原鉄道には二回ほど行きました。
とてもなつかしく見させていただきました。
五泉から村松は一直線でしたね。

当時モハ31を採寸して帰り、紙で自作しました。
パンタグラフが特殊な形状でしたのでこれも自作したのですが歪んだものしかできませんでした。
もう30年以上も前のハナシです。

赤影 さんのコメント...

地方私鉄の旧型車にPS16系パンタは珍しいなぁ。。。ちょっと萌えマス♪

原口 悟 さんのコメント...

阪鉄車両さん、赤影さん初めまして

「蒲原形パンタグラフ」ですが、かなり昔の鉄道ピクトリアル誌(確か1990年代中頃)にパンタグラフに関するコラムがあり、簡単なイラストで標準的なパンタグラフから変わった形のものまで紹介されていました。その中に蒲原鉄道のパンタグラフが「それぞれの私鉄の車両を個性づけるもの」の代表格として、岡山電軌の「岡軌式パンタグラフ」などとともに紹介されていたことを覚えています。「蒲原形パンタグラフ」の印象が強く、実はモハ61,71がそれぞれPS16, PT42に似たものを付けていたことに初めて気づきました。

chitetsu さんのコメント...

阪鉄車輌さん
五泉から村松は厭になるほど直線コースでしたね。
それも、ずっと道路が並行して走っていて全然上手く撮れませんでした。
電車を採寸して作る・・・模型趣味の原点ですね。

あっちのブログと合わせてカチカチ見てね(^O^)。

chitetsu さんのコメント...

赤影さん
何となく見てましたが、PS16系のパンタだったのですね。
上から見ると田舎臭いパンタに見えちゃうのですが。

chitetsu さんのコメント...

原口さん
一見普通のパンタ、実は曲者パンタですね。
そんなに両数がいないのにパンタが異なっているのも興味深いです。
どこで作ったのでしょうか?

Cedar さんのコメント...

蒲原はかの鯨くんと二人で訪問しました。加茂から入って大蒲原ー村松から五泉に出ました。村松駅や車庫で撮ったネガが行方不明のままです。

伊豆之国 さんのコメント...

蒲原鉄道には、結局最後まで残った五泉~村松間だけしか乗れなかったことは前にも書きましたが、この区間だけになってからも初めの頃は朝のラッシュ時には3両編成になることもあったらしく、やはり通学生の利用が結構多かったということからこの区間だけ残されたということなのでしょう。
最近姿を消したという個人保存の2両は、以前にどこかのTV番組で見た記憶がある、田んぼの中の料亭の主が上屋付きの建物と共に自費で保存した車両でしょうか。その料亭の主が逝去され、料亭も廃業、相続の関係などでご遺族が処分せざるを得なくなったということなのでしょうか。冬鳥越に保存されている車両は、おそらく今も健在だということですが…。

chitetsu さんのコメント...

Cedarさん
鯨さんはいかにもこのような電車が好物そうですね。
以前、親がネガを捨てようとしていました。聞いたら『プリントがあるから要らない』・・
そんな考えもあるのですね。
因みに自分も木曽森林や尾小屋のネガが行方不明です。

chitetsu さんのコメント...

伊豆之国さん
朝の3連、写真で見たことありますが実際に見ることはできませんでした。
例の保存車のオーナーは料亭を経営していたのですか。
折角かなりの費用を掛けての保存だったでしょうに残念です。
やはりモノがモノだけに維持管理は大変ですね。