少年時代から大の電車好きです。 物心ついた時には踏切の横に立って電車を見ていました。 以降、全国各地に吊り掛け電車を追いかけて歩いた記録を中心に、模型やストラクチャー探訪記などを気まぐれに載せてゆきたいと思います。
五日市線といいますと、昔読んだTMS(Nゲージマガジン、No.17)で(国鉄の)電化単線でレイアウト向けと紹介されていまして(今はどうだか知りませんが、92年当時は日中でも103系4連があったので車輌も入手しやすいものでした。)、説明読むと駅がどれも個性豊かでそれでいてNゲージなら十分再現できる規模のもので魅力的でした。写真に写っている73系の編成も4連ぐらいですかね?国鉄だとこれぐらいが迫力ある編成の下限かなって気がします。
レサレサさん当時の五日市線は通常4両、ラッシュ時クモハ40を足した5両でした。青梅線と異なり今も大差ないですね。
こんばんは。クハ79180、台車がDT12ですね。クモハ63も、比較的初期の車輌は戦災台車を利用していたことを示すわけですが、少なくとも前位の台車は、DT12のうちでも比較的後期のタイプ(軸箱守の外側にクレーン掛け有り)ですね。一方、クハ79176はDT13台車になってます。この辺が面白いところですね。元山スカでアコモ改造された車輌が無かったのは、時期的にもう更新しない時代になってしまっていたからでしょうかね。
すぎたまさん63形時代の車両にはかなりの両数のDT12装備車が混ざっているようです。これも混乱期らしい特徴ですね。山スカはアコモ対象外でしたので、転用後も原形に近い姿を保っていたと思われます。
青梅、五日市線では72,79形920番台が非常に少なかったのが特徴(末期ではクハ79942だけ)でしたが、何故920番台が少なかったのか、「我が心の飯田線掲示板」で話題になったことがあります。昭和40年代後半では「920番台全金車の劣化が進んでいて、300,500番台、特にアコモ更新車のほうが状態が良かったため、300,500番台の方を優先的に配属するよう、現場で要望したのではないか」という説が出たのですが、920番台は昭和40年代前半までは京浜東北線の920番台統一編成など「虎の子」のように使われていたのが、昭和40年代後半になると「急速にくたびれてしまった」との情報が寄せられました。920番台が登場した昭和30年代前半は、ナハ10系客車に始まる「軽量構造」や「内装等の全金化」など、車体製作技術が急速に発展しましたが、これに対して金属の材質等「冶金技術」が追い付かなかったようで、「初期高性能車」とされる一群など、この時期の車両は早い時期の車体の劣化に悩まされていた印象があります。昭和50年代の高崎線を走っていた115系の印象でも、当時新製から10年以内だった300番台に対して、0番台はくたびれた印象があり、実際の新製時期の違い以上に「新しさ」「古さ」の違いを感じた印象があります。
原口さん初期の全金属車はおっしゃる通り概して劣化が早かった気がします。乗車していて特に感じたのはナハ10系で、隙間風が多く、冬場は特に寒い車両として敬遠していました。
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6 件のコメント:
五日市線といいますと、昔読んだTMS(Nゲージマガジン、No.17)で(国鉄の)電化単線でレイアウト向けと紹介されていまして(今はどうだか知りませんが、92年当時は日中でも103系4連があったので車輌も入手しやすいものでした。)、説明読むと駅がどれも個性豊かでそれでいてNゲージなら十分再現できる規模のもので魅力的でした。
写真に写っている73系の編成も4連ぐらいですかね?国鉄だとこれぐらいが迫力ある編成の下限かなって気がします。
レサレサさん
当時の五日市線は通常4両、ラッシュ時クモハ40を足した5両でした。青梅線と異なり今も大差ないですね。
こんばんは。
クハ79180、台車がDT12ですね。クモハ63も、比較的初期の車輌は戦災台車を利用していたことを示すわけですが、少なくとも前位の台車は、DT12のうちでも比較的後期のタイプ(軸箱守の外側にクレーン掛け有り)ですね。
一方、クハ79176はDT13台車になってます。この辺が面白いところですね。
元山スカでアコモ改造された車輌が無かったのは、時期的にもう更新しない時代になってしまっていたからでしょうかね。
すぎたまさん
63形時代の車両にはかなりの両数のDT12装備車が混ざっているようです。これも混乱期らしい特徴ですね。山スカはアコモ対象外でしたので、転用後も原形に近い姿を保っていたと思われます。
青梅、五日市線では72,79形920番台が非常に少なかったのが特徴(末期ではクハ79942だけ)でしたが、何故920番台が少なかったのか、「我が心の飯田線掲示板」で話題になったことがあります。
昭和40年代後半では「920番台全金車の劣化が進んでいて、300,500番台、特にアコモ更新車のほうが状態が良かったため、300,500番台の方を優先的に配属するよう、現場で要望したのではないか」という説が出たのですが、920番台は昭和40年代前半までは京浜東北線の920番台統一編成など「虎の子」のように使われていたのが、昭和40年代後半になると「急速にくたびれてしまった」との情報が寄せられました。
920番台が登場した昭和30年代前半は、ナハ10系客車に始まる「軽量構造」や「内装等の全金化」など、車体製作技術が急速に発展しましたが、これに対して金属の材質等「冶金技術」が追い付かなかったようで、「初期高性能車」とされる一群など、この時期の車両は早い時期の車体の劣化に悩まされていた印象があります。昭和50年代の高崎線を走っていた115系の印象でも、当時新製から10年以内だった300番台に対して、0番台はくたびれた印象があり、実際の新製時期の違い以上に「新しさ」「古さ」の違いを感じた印象があります。
原口さん
初期の全金属車はおっしゃる通り概して劣化が早かった気がします。
乗車していて特に感じたのはナハ10系で、隙間風が多く、冬場は特に寒い車両として敬遠していました。
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