2020年5月14日木曜日

知立から碧南経由吉良吉田へ 1983年の旅。

1983年春の名鉄電車の旅のアルバムからです。
現在モ800形を製作している関係で、当時の画像を再スキャンしている時に、駒を見ていると当時どのような旅をしたのかがかなり記憶が薄れていることに気づきました。
これ以上記憶が遠ざからないように記事化致します。

83.3.1 鳴海

1983年当時、数は減ったもののまだまだAL車もHL車も本線系統で元気に走っていました。
名古屋に行くと毎回恒例の東枇杷島で上下列車を撮影してから、知立・碧南経由で蒲郡線に行った時の記録です。
東枇杷島の駒の次は鳴海に停車中のモ810でした。どうしてここで下車したのかわかりませんが、反対側ホームにはモ800形の2連が退避待ちをしていました。

83.3.1 鳴海 

特急をやり過ごしたのちに犬山に向かって発車してゆきました。
モ810は同グループの中でも木製の貫通扉を維持しており、器量よしでした。

83.3.1 鳴海

そして、私はいもむし号に豊明まで体験乗車。

いもむし車内

いもむし号の運転台はこのように開放的でした。
できれば優等列車で乗りたかったですが、贅沢は言えません。
83.3.1 碧南

豊明から碧南までは記録がありません。
碧南駅は立派な駅舎がありました。

83.3.1 碧南

知立から碧南までは右のHL車に乗ったのだと思います。
ここからの海線は左のモ809に乗ります。

83.3.1 碧南

ここでモ809がいるということは、先ほど鳴海で見たモ810の相方はモ811であったことになります。約一時間の間にモ800由来の両運転台車3輌すべてを見れたことになります。

83.3.1 吉良吉田

そして、吉良吉田に到着です。
途中の海線乗車中の記憶は悲しいほどに・・・皆無です。
写真が無ければすべてが記憶の向こうに行ってしまっていたということで、記録の大切さを改めて実感させられました。



8 件のコメント:

  1. モハメイドペーパー2020年5月14日 11:47

     単行運転があったのですね。趣味的にはおもしろいけど、経営上は問題でしょう。気動車化されても焼け石に水だったのが想像できます。

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  2. 大手私鉄では珍しいレールバス投入が話題になっていた頃に三河線海線に見に行ってみましたが、沿線は住宅、倉庫、工場、田畑がとりとめなく混在する典型的な現代日本の郊外の風景で、記憶に残りにくいのは当然かもしれないですね(笑)。

    名鉄は、岐阜の600Ⅴ区間、道路併用の犬山橋、本線の駅の年季の入った無骨なホーム屋根、平然と各停で走るパノラマカーなどが印象に残っています。

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  3. この頃はまだ保育園児でしたが、豊橋から国鉄の117系新快速で蒲郡、そこから蒲郡線と三河線を乗り継いで祖父母の家に行っていました。
    蒲郡駅で昼寝をするパノラマカー白帯車、よく揺れるAL車やHL車、まだ30分ヘッドだった山線など、今となってはいい想い出です。
    この頃の体験が、私の鉄道好きの原点なように思います。

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  4. モハメイドペーパーさん
    電車からわざわざ新車を入れて気動車化して、どれだけ経費削減されたのかよくわかりませんが、どのみち先は見えていて厳しかったのでしょうね。

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  5. midorinoneko さん
    海線の沿線は人口過疎地域というわけでもなく、おっしゃるような風景でしたね。それでも輸送需要は無かったということですね。
    沿線風景の記憶は矢作川を渡る鉄橋前後ぐらいでした。

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  6. いちばん さん
    蒲郡線も存続が厳しくてしばしば話題に上りますね。
    それでもずいぶん後まで名古屋から直通列車があったのも今は思い出ですね。
    AL車、たしかに良く揺れましたね。
    でもぐんぐん飛ばす走りっぷりは東京の電車と違って感激したものです。

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  7. 三河線の海線区間、風光明媚なのにそんなに田舎でもなく、明るい雰囲気でレイアウトにするのにいい感じでしたね。
    もっともCedarが乗ったのは気動車化後でしたが、矢作川の鉄橋の架線柱が無常感をかき立てていました。

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  8. Cedarさん
    海線の廃止区間はそれほど田舎感のある沿線風景では無いのですよね。架線が無いのに架線柱がずっと続く風景というのは寂しいものですね。

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