昨日はその旅の最終日の蒲原鉄道の訪問記をアップしましたが、本日は旅の前半編から野上電車です。
この夏の旅のスタートは大垣夜行で豊橋へ。
飯田線、豊橋鉄道を見た後の近鉄ナローへ。
四日市で近鉄ナローを満喫後(その時の写真はこちらをどうぞ⇒近鉄モニ220)は午後、国鉄四日市に向かいました。
最初の近鉄訪問時に国鉄四日市駅窓口で切符を買おうとしたら「近鉄の方が電車多いし安くていいよ~」と言われた件の駅です。
(その時の話はこちら⇒近畿日本鉄道 特殊狭軌線)
本日は、『はやたま』で紀伊半島半周なので窓口で近鉄云々言われることもなく、紀勢線の客車列車の普通夜行列車の『はやたま』を待ちます。
オハフ33 7 81.8.30 亀山 |
寝台車連結の関係からの便宜上とは言え、列車名が付いた夜行列車とは思えない後ろ姿です。
オハフ33 7 81.8.30 亀山 |
今となっては信じられないサボ。
当時の時刻表を見ると、四日市15:16発、海南3:38着となっています。
このオハフ33に揺られながら紀伊半島を半周しました。
そして、海南駅にはべらぼう早い早朝に到着しました。
真っ暗で人気のない駅前通りをとぼとぼと野上電車の日方駅まで歩いた時の早朝(深夜?)の街並みの空気感が今でも目に焼き付いています。
始業前の日方駅構内 81.8.31 |
日方の駅の待合室で明るくなるのを待ちます。
まだ薄暗いながらも夜が明けてくるのを待って、三脚で電車を撮らせていただきました。
そこで見たのはちょっと不思議な光景でした。
止まっている電車の多くはパンタが上がっているのにし~んとしており、物音一つしません。
車両によってはドアや窓さえ開いており、今にも動きそうな雰囲気なものの様子がちょっと変です。
そしたら突然、あちこちの電車からいきなりコンプレッサーが動き出したり、車内の明かりが点いたりしだしました。
この風景、まるで模型の世界でいきなりスイッチを入れたような感じでの業務開始でした。
きっと昨晩も終電が到着したらパンタもおろさずに元電源(?)を一気に切ったのでしょうね。
乱暴というか、微笑ましいというか・・・
ものすごくおおらかな始業のシーンを見てしまいました。
パンタを下ろさずに架線の給電を切っても問題ないのでしょうか?
モハ31 81.8.31 日方 |
こちらのモハ31は窓も扉も開けっぱなし、パンタも上げっぱなしで睡眠中。
呆れるほどおおらかなものです。
この後、いきなり灯火類が点り、コンプレッサーが動き始めたのです。
クハ102(左)、クハ101(右) 81.8.31 日方 |
元阪神のトレーラーが2両顔を揃えて寝ていました。
モハ27 81.8.31 日方 |
こちらはモハ27。
元阪神の701形電車。
モハ32 81.8.31 日方 |
明かり窓の付いたモハ32に朝日がさしだしました。
元阪神の1101系電車です。
クハ101 81.8.31 日方 |
以上のように、野上電車の日方構内は晩年のギスギスした雰囲気とは全く違う、そして今となっては信じられないぐらいの平和な光景が広がっていました。
このあとの沿線風景はこちら(⇒野上電車の夏)。
因みに野上電車の後は、
南海貴志川線(こちら⇒南海貴志川線)、
水間鉄道(こちら⇒南海の支線のような水間鉄道)、
阪急をちょっと(⇒鉄コレ阪急1010形)
と見てから夜行で福井(こちら⇒福井鉄道 二度目の訪問 始発前の武生新)
北鉄(⇒未公開)
富山港線(⇒富山港線 再訪)
と回って最後は更に夜行列車で・・・
新潟交通(こちら⇒初秋の新潟交通)
蒲原鉄道(こちら⇒蒲原鉄道 高松から七谷へ)
を回るという、今考えると随分すごいコースを車中泊3回を利用しながら足掛け9日間かけて回っています。
学生時代らしい時間の使い方でした。
6 件のコメント:
野上電鉄がいちばんいいころですね。
地方私鉄が普通に地域社会の一員として機能果たしていた時代、職員の方もおおらかだったんでしょうね。
野上は不思不思鉄道というイメージがあります。”連絡口”でしったっけ、駅のような駅ではないような停留所もありましたよね。
日方駅に海南駅から歩くと、えらい遠くて。。
さて、この頃の写真はエクタクロムですか?
Cedarさん
訪問時は存廃の危機を逃れてちょっと落ち着いて時期でした。
この後は重さを確認しないで電車を買ったり、沿線に無意味にコンクリート柱を転がしたり、おかしくなってゆきました。
maru-ha殿
連絡口という駅は不思議な駅でしたね。
海南より日方の方が歴史が古かったことがこんな駅を作らせたのでしょうね。
この写真を見て都会の人間からすると、地方の田舎はある意味おおらかという良い部分を象徴させているような気がしますね。
この私鉄がもし琴電のように再生していたら、どんな鉄道になっていたんだろうと今になって思います。
多分旧型車の一部は琴電のように動態保存というカタチで残っていたのかも知れませんね。
宵闇さん
最初の訪問の頃は至って大らかでビックリしました。
もし生き残って設計まで終わっていたと言う新車が納車されていたらどうなっていたでしょうか?
でもこの線の立地環境では頑張ってもどのみち経営は厳しそうですね。
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