三回目は弘南線を中心にした撮影記です。
80.10.13 平賀 |
この旅では弘前で2泊しました。
大鰐線と弘南線にそれぞれ一日を見込んだ今考えるとゆとりを持ったスケジュールでした。
まず朝は弘南鉄道大鰐線の通勤電車撮影から始めました。
モハ105 80.10.13 中央弘前ー弘高下 |
昼間は二両編成が単純にループ運転するだけですが、朝の通勤電車は総力戦で電車がやってきます。
最初にやって来たこちらは、両運転台のモハ100形を増結した3両編成。
モハ108 80.10.13 中央弘前ー弘高下 |
次にやって来たのはお待ちかねの4両編成です。
先頭は元京急の400形です。
モハ1121 80.10.14 中央弘前ー弘高下 |
こちらは17M旧形国電の4両編成。
先頭はクモハ11400番台です。
この姿、良いですね。
クハ1612 80.10.14 中央弘前ー弘高下 |
反対側2両は西武経由の旧形国電コンビでした。
地方私鉄の朝の列車は、正に早起きは三文の得というやつですね。
朝のラッシュが終わったところで弘南線に向かいます。
大鰐線の中央弘前と弘南線の弘前はご存知のようにかなり離れた場所にあります。
クハ3778 80.10.13 弘前 |
国鉄弘前駅の端っこにある弘南線ホームから眺めた風景。
こちらは東急からやって来た3600系。
ED333(左)、ED75782(右) 80.10.13 弘前 |
偶然、弘前の駅構内で直流電気機関車の古参と交流電気機関車が顔を合わせました。
80.10.13 平賀 |
こちらも先ずは車庫のある平賀を目指します。
平賀の車庫は津軽大沢とは異なり昔から存在する車庫ですので、古い施設の残る地方私鉄らしい車庫です。
ED301 80.10.13 平賀 |
狭い車庫構内では電気機関車が電車の入換を行なっていました。
この当時弘南線には電気機関車が二両在籍し、当日はどちらも元気に活躍していました。
モハ3616 80.10.13 平賀 |
ところで、弘南線で見たかったものが3つありました。
一つは、阪和電車の生き残りを見ること。
二つは、17メートルの旧形国電の3両編成を見ること。
三つは、地方私鉄らしからぬ6両編成を見ること。
でした。
まずは一つ目です。
クハ2025 80.10.13 平賀 |
クハ2025 80.10.13 平賀 |
こちらの薄暗い庫内でその一つ目の目的の電車を発見しました。
阪和電鉄のモヨは2両が松尾鉱山鉄道に譲渡されましたが、同線の廃止で失職、その後弘南鉄道に引き取られて活躍することとなりましたが、パワーがありすぎて持て余したのか、東急からの電車が押し寄せた時点で早々に電装を解除してクハになってしまいました。
こちらのクハは、この当時通常は編成中間に組み込まれていて顔を出さないとの話でした。
この時はたまたま検査で顔を出していたようですので、写真的には苦しい条件でしたがラッキーとも言えるのでしょう。
その後の乗客減で昼間2連での運用が始まってからは再び顔を出すようになってらしいですが、それもちょっと皮肉な感じですね。
クハ2026 80.10.13 平賀 |
先ほどのクハ2025は阪和顔を残していますがもう一両のクハ2026は非貫通に改造をされてしまいました。
折角の凛々しいお顔が随分と間抜けてしまいました。
クハ2026 80.10.13 津軽尾上ー田舎館 |
この電車は国電17M車と組んで当日は一日中走っていましたので、沿線でもその姿を記録できました。
次は目的二つ目の旧形国電の3両編成です。
モハ1120 80.10.13 平賀 |
モハ1120 80.10.13 平賀 |
先頭のモハ1120は良く国電時代の面影を残しています。
元国電のモハ30⇒クモハ11100番代です。
サハ1700 80.10.13 平賀 |
こちらは元国鉄のサハ17形。
国電のサハがそのまま譲渡先でも活躍をした希少な例ですね。
クハ1611 80.10.13 平賀 |
こちらは元国鉄のクハ16形。
元クハ65⇒クハ16400番代です。
目的三つ目の6両編成の電車は意外なことに昼間の閑散時間帯に見ることができました。
モハ1120 80.10.13 平賀ー柏農高校前 |
元国電クモハ11を先頭にした元国鉄+元東急の6両編成です。
地方私鉄での電車6両編成はなかなか見ることのできないものでしたので、感動しました。
ご覧になればわかるように弘南線は平坦なため当時は1M2Tの経済編成で走っており、6両編成になると2M4Tとなり今時のVVVF編成もびっくりな編成となっています。
モハ1120 80.10.13 津軽尾上ー田舎館 |
弘南線は最初から黒石に到達していませんでした。
津軽尾上から黒石の間は戦後の1950年の開業です。
この延長開業区間での見所はこちら。
田圃の真ん中をコンクリート橋で走る印象的な区間で捉えたモハ1120。
クハニ1272 80.10.14 運動公園前ー新里 |
6両編成は翌日も同じ列車で別編成でやって来ました。
昼間の長編成は不思議に感じましたが、列車回送のための6連で客扱いをしているのは3両だけだったのです。
モハ3403 80.10.14 館田ー新里 |
最後は東急の3400形の姿で3回にわたった1980年秋の東北の旅、締めといたします。
家族をうっちゃっての気合入った撮影ですね。
返信削除Cedarはやはり、旧国より阪和形や伊那電形に目が行っちゃいます。
大鰐線の朝ラッシュの編成良いですね。
返信削除色々な形の旧形電車ばかりの連結した長大編成は個人的に大好きです。
この時代ワタクシ自身西の私鉄ばかり興味があり、北は全然行かなかった事を後悔しています。
話は変わりますが、小田急のモノレールの模型7560円だそうです。
正直高いのか安いのかよく分からない値段ですね。
弘南線のほうは、大鰐線よりも14年ほど前に乗っています。その前の晩、青森を出て黒石郊外の温泉に泊まったのですが、折からの豪雨で青森からの列車は運休。タクシーを飛ばし、浪岡辺りからは道路も水浸しになる中、ようやくたどり着いたのでした。翌朝、弘南線も運行を再開したのですが、館田~新里間で川が増水して鉄橋が通れず、この1駅間だけバスで代行だったのを覚えています。
返信削除その頃の弘南線は、まだ武骨な旧式車両の天下で、元東急3600の3連などが主力でしたが、乗った車両の形式が何だったかは、残念ながら覚えていないのですが…。6連があったことは、鉄道雑誌で知っていましたが、それがいまや朝のラッシュでも2連で十分というのは、もはやご時世なのでしょうか。
このときにパスしてしまった弘前には、それから14年経ってようやく訪れ、大鰐線に乗ったことは前回書きましたが、その当時の大鰐線にも、4連があったのを見ています。
元17m国電というと、身近なところにあった伊豆箱根鉄道を思い出します。子供の頃、父の実家に行ったとき、駿豆線の旧西武カラーに塗られた車両に乗った記憶があり、その後、大雄山線でも乗ったことがあります。大雄山線では、昭和末期まで残っていたと記憶しています。
こんにちは~♪
返信削除弘南の懐かしい車輛たちですね!
私が行った時には、元東急3600がほぼ休車扱いで在籍していた時代でした。
秋の鉄道の日、旧型電機が重連で3600系を牽引するというイベントがあり、1回だけ訪問して撮影できました。
殆ど、マニアも乗客もいない列車でした。
もしよければ、その列車を撮っていますので・・・
私のブログ内の検索で「弘南鉄道」と入れるとヒットしますよ!
Cedarさん
返信削除弘南鉄道は東北最大の旧形電車の里でしたので是非行ってみたかったところですね。
ここに来るとやはり規格的な国電より買収電車の方に目がいっちゃいますね。
宵闇さん
返信削除大鰐線の種々雑多な電車のラッシュ時の電車は楽しかったです。
でも、学生時代の青森はやはり遠かったです。
モノレールの価格、
微妙ですね。
伊豆之国さん
返信削除それは散々でしたね〜。
弘南線も6連どころか2連でもスカスカみたいですね。
寂しい限りですが、これが現実なのでしょうね。
KAZUさん
返信削除私も晩年東急の電車が色褪せて置かれていたのを見たことがあります。
KAZUさんのサイト、今度拝見させて頂きます〜。
ご無沙汰しております。
返信削除阪和崩れクハを見ていて思ったのですが、2025号の方はchitetsuさんが撮影当時は弘前側に運転台があった(モハ時代のまま)のですね。
私が撮影した1983年当時は黒石側に運転台がありました(クハ2026と同じ側)。
参考までに写真をアップしておきました。
http://oimactaka.shumilog.com/2014/10/14/%e5%bc%98%e5%8d%97%e9%89%84%e9%81%93%e3%81%ae%e9%98%aa%e5%92%8c%e5%b4%a9%e3%82%8c/
たかはし おさむさん
返信削除こんにちは。
ブログ記事拝見しました。
確かに運転台の向きが変わっていますね。
どなたかのサイトでも途中で向きが変わったと書かれてますので、想像するに方向転換じゃなくて、運転台機器を移設したのではないでしょうか?
私が見た時も黒石方は運転台の機器撤去程度だったので、改造は結構容易だったかもですね。
両親の実家が平賀でしたので、帰省した際は平賀駅で電車を眺めるのが楽しみでした。当時は小学生でしたので電車の来歴などは知る由もありませんでしたが、飽きもせず毎日のように出かけていました。
返信削除80年夏に一区切りとなりましたが、間もなく東急3600全金車導入で在来車は大鰐線に転出し、その後社会人となった88年9月に旅行の途中で再訪しましたが、この直後に東急7000形が大量に入線(青函連絡船乗船のため弘前を出て間もなく甲種回送とすれ違いました)と、今となっては微妙なタイミングで良き時代を実見出来たのだと思います。
一昨年久し振りに帰省しましたが、以前は無かった立派な道路が整備されててびっくり。あれでは電車に乗る人がいないのも仕方ないですね。
こんばんは、合運のお帰り間際に会田さんと旧車(スカイライン)の話をさせていただいた渡辺です。
返信削除弘南電鉄には、修学旅行の時と三年前これは東急6000系の貸切乗車で行きました。修学旅行の時は八幡平から弘前に向かう途中、 バスから阪和形電車をパチリととりました。松尾銅山だったと思います。1973年のことです。
1980年ころの東急3600はとてもきれいでしたね。末期の頃はサビだらけでしたよね。
東急6000は貸切専用みたいですが、手直しすればまだまだいけそうなきがしました。方向幕も渋谷大井町など懐かしい文字ご残ってました。
最近はだんだん魅力のある車輌が減って寂しい限りですね。
匿名さん
返信削除平賀がご実家ですか。
一時期、仕事で平賀、尾上には何度も行きました。
既にその頃は3600が予備車で残っているだけでした。
業務で行っている間にもどんどん道路が整備されていく様子を見ていました。
高齢者でさえ軽で用事を済ませてしまう現代、地方の私鉄は本当に大変だろうと思います。
watanabeさん
返信削除こんばんは。
先日はありがとうございました。
修学旅行の社鼠うから見える初めての鉄道にはウキウキしますね。
私はそのターゲットは土佐電と琴電でした。
仰るように、近年は見に行きたい電車が減ってつまらなくなりましたね。
1980年の弘南鉄道はこんなに魅力的だったのですね。
返信削除私が初めて弘南に乗ったのは1990年で、幼い頃『コロタン文庫 私鉄全百科』に載っていた旧国など壊滅で、乗ったのは東急7000系と黒石線のキハ22。帰路の急行津軽からかろうじて大鰐温泉にくたびれた東急3600が停まっているのをみただけでした。
その次は2006年で、観桜の時に宿が平賀だったおかげでしたが、まだ快速が走っていました。
3回目はちょうど2年前で、この時は大鰐線でしたが 15時前の電車は僅か数人、しかも1時間ごとで危機感を感じました。途中で車庫に停まっているふなっしーを見れたのが収穫でした。
そんな弘南線に6連時代があったなんて不思議です。
ちなみに一昨年訪問時に弘前大学生と話すと、弘前は平野なので学生は自転車移動だそうです。大鰐線と大学が近くないせいもあるでしょうが。
品じぃさん
返信削除弘南鉄道は東急の電車が入りだしてからはどんどん車両交代が進んでだんだんつまらなくなってゆきました。
東急線内ではそれなりの雰囲気だった3600系も弘南線では浮いていた気がしました。
その後は凋落の道を歩んでいますね。
今や地方交通での鉄道の価値は大変低くなってしまっているのはどうにもならないのでしょうかね。
こんばんは。
返信削除確かに26号は方向転換していますが(元パンタ位置の感じから)、25号は運転台機器を移設しなのでしょうね。
将来、伊那電崩れと共に手元に置きたい(作りたい)電車の1形式です(そう思って早くも31年が経過しましたが・・・)。
たかはし おさむさん
返信削除阪和の2両のモヨは色々な改造をうけて波乱に富んだ人生を歩んだ、と言うことなのでしょうね。
車齢を考えると天寿全うした感じでしょうか。
私もこの電車は手元に置きたいランキング上位の1形式です。
果たして夢が実現するかどうか?