2014年10月12日日曜日

1980年秋、東北への旅 その2  花輪線から弘南鉄道へ

1980年秋、東北の旅二回目です。
どこで泊まったのか全く思い出せないまま、記事アップ当日を迎えました。
35年前の今日、花輪線の大更駅から一人旅が始まりました。
家族はこの日で東京へ帰ります。
途中の花輪線大更の駅で別れて、私は一路花輪線を大館に向かいます。

80.10.12 竜ヶ森

途中の竜ヶ森では以前から雑誌で紹介されていたオハ31利用の竜ヶ森ヒュッテを一目見ようと気動車の窓からカメラを構えます。
そのファインダーに入って来たのは期待のオハ31ではなくスハ32でした
いつの間にか車輌が更新されてしまったのですね。
ここもその後のスキーブームで安比高原と駅名を変更して冬場は臨時列車が運転されていましたが、今や交換設備さえ撤去されて寂しくなってしまいました。

キハ52 36 80.10.12 荒屋新町

その後、荒屋新町で上り列車と交換。
窓越しに撮ったお手軽画像ですが、背景の給水塔やタブレット授受設備など、懐かしい設備が写り込んでいます。
無煙化されたとはいえ、まだハチロク3重連の峠越え時代の遺構は未だ残っていました。

キハ26 104 80.10.12 大館

大更から気動車に揺られること2時間半。
終点大館に到着しました。
ここからは奥羽線の普通列車で矢立峠を越えて大鰐を目指します。

モハ2252 80.10.12 大鰐

残念ながら奥羽線の列車は何も撮っておらずに次の駒はいきなり大鰐の弘南鉄道大鰐線の電車です。

弘南鉄道は弘南線と大鰐線がありますが、大鰐線は戦後開業の意外と歴史的には若い鉄道です。
大鰐線の前身は弘前電気鉄道。
戦後弘前の有力者を中心に地方電気鉄道システムのデモンストレーションを狙っていたという説のある三菱電機が資本参加して設立した鉄道です。
開業時も資金難で電車も全て中古車で、その後の経営も芳しくなく結局は三菱電機は経営からの撤退を表明したことで、開業から20年程度で既に廃止の危機に直面、紆余曲折の末弘南鉄道が引き受けたという経緯があります。
そのため、電車は弘南線のお古、つまり中古の中古が回されていました。
その分大鰐線の方が趣味的には興味深い電車の集まりでありました。


 その大鰐駅に停車していたのはモハ2252。
この厳ついお顔の電車は富士身延鉄道が製作した2扉クロスシートの電車でした。
私が見たときは3扉ロングシート化されていました。
この電車に最初から出会えて、既に大興奮。

モハ2252 80.10.12 大鰐

この電車で車庫のある津軽大沢を目指します。

モハ2231(左)、クハニ1271(右)
 80.10.12 津軽大沢

津軽大沢駅は田圃のど真ん中に立地しており、周りには人家もさほど多くありません。
このような場所に車庫があるのは以前の手狭だった西弘前から車庫が移転して来たので、それほど古い設備ではありません。

クハ1266 80.10.12 津軽大沢

車庫には各地から集まった古い電車が休んでいました。
こちらは元西武の川造形電車。
この電車は同じ青森県内の私鉄の津軽鉄道にも客車として活躍をしていました。


モハ2232 80.10.12 津軽大沢

同じ元西武の電車でも随分とスタイルの異なるモハ2232。
元を正せば武蔵野鉄道のデハ5550形。
クハ1266が元新宿線の旧・西武鉄道の電車なので、別の会社が製造したものなので当然テイストが異なって当然です。
形式はモハですが、電装解除されて実質的にはクハになっていました。

クハ201 80.10.12 津軽大沢

こちらは元小田急の電車。
新潟の2私鉄には大量に嫁ぎましたが、1両だけぽつんと弘南鉄道にもやって来ました。
クハニ1271 80.10.12 津軽大沢

こちらは元伊那のクハニ1271。
国鉄買収後に譲り受けしています。

モハ2253 80.10.12 津軽大沢

こちらも買収国電のモハ2253。
元富士身延の電車で、4両を譲り受けしています。
元来は2扉の電車を3扉に改造をしています。
4両のうちの1両だけが2扉の原型を留めていました。

ED221 80.10.12 津軽大沢

こちらも買収車で元信濃鉄道(現・JR大糸線)のED221。
戦後すぐの1948年に廃車、西武鉄道に譲渡されましたがその後この機関車は転々としました。
その後は近江⇒一畑⇒弘南と動いて現地が安住の地となりました。
転々としたのが結果的には幸いしたのか仲間の中では唯一いまなお現役で活躍中です。


モハ2253 80.10.12 津軽大沢ー新石川

津軽大沢の車庫見学の後は、駅近くで陽が傾くまでやって来る電車を撮って過ごしました。

モハ1122 80.10.12 津軽大沢ー新石川

懐かしい張り上げ屋根を残したモハ1122は焼け電復旧の西武の電車です。
国電の張り上げ屋根電車は更新修繕でほぼ全滅しましたが、西武で復活した国電は最後まで原型を維持していました。

モハ2253 80.10.12 津軽大沢ー新石川

富士身延と伊那の電車が手を組んでコトコト走ってきます。
どちらの電車もスマートという言葉とは縁遠いスタイルの電車ですが、いかにも田舎電車らしい姿が愛らしいですね。

モハ2251+モハ2252 
80.10.12 津軽大沢ー新石川

富士身延の2両編成が稲刈りの終わった田んぼを見ながら走り去ります。
田舎電車好きには堪らない風景です。

ED75 760 80.10.12 弘前ー石川

弘南鉄道の直ぐそばには奥羽線も併走しています。
こちらも時間を見ながら撮っています。

ED75 765 80.10.12 弘前ー石川

レッドトレインもまだデビューして僅か、赤い車体を輝かせていました。

モハ2253 80.10.12 津軽大沢ー新石川

秋の陽はつるべ落とし。
この列車にて本日の撮影は終了です。

モハ1122 80.10.12 中央弘前

陽が落ちた中央弘前まではこの電車に乗りました。
本日は弘前で宿泊、明日は弘南線を訪問します。

4 件のコメント:

  1. ひええええええええ~
    中央弘前も津軽大沢も35年間まるっきり変化なしやんけえええええ~~!
    びっくりこいたー

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  2. 犬宰治殿
    お早うございます~。
    お早いお目覚めで!
    だって、この鉄道お金なさそうだもん。
    廃止、なんてことならんように祈ってます。

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  3. 私が弘前を訪れたのは、20年ちょっと前の春の連休、弘前城跡の桜見物。満開を過ぎ、まさに散り際といったところで、お堀の水面を散った花びらが埋め尽くす光景は、今も強烈な印象として瞼の奥に残っています。
    このときのルートは、盛岡から高速バスで弘前に直行。前から知っていたことでしたが、やはり結構な繁盛で、もうその頃には、急勾配・急カーブも多く鈍足の花輪線は、観光客には全くお呼びではなかったのでしょう。
    桜見物の後、大鰐温泉に宿泊し、前日に見残した城下町散策で弘前に戻ったのですが、当時のダイヤでは朝の時間帯には弘前方面への列車が無く、弘南電鉄大鰐線に乗って中央弘前に出ています。既に雑多な旧式車両が消え、元東横線の7000系にほぼ統一されていて、こちらのほうでは面白みは無かったのですが…。武家屋敷町や、日本最北という五重塔もある寺町にも、城下町らしい風情がありました。

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  4. 伊豆之国さん
    花輪線は一時は盛岡から弘前方面へのルートとして機能していた時代もありましたが、今はただのローカル線と化してしまいました。
    東北道が出来てしまってはもう太刀打ちできませんね。

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