しかし、昔の関東鉄道には小田急の電車が7両いました。
左からキクハ1、キクハ4、キハ901 83.2.25 水海道 |
今はなき移転前の水海道機関区にて。
キハ35もどきのキハ900の奥に元小田急の電車が休んでいました。
左手に並ぶ詰所群も年季の入った建物ばかりでした。
キハ751(左)、キクハ4(右) 83.2.25 水海道 |
手前のキハ751は御殿場線直通運転用に製造した小田急の気動車です。
キクハの相手は割合このキハ751形が多かったようで、前身ではありえない組み合わせが毎日のように展開されていたわけです。
左からキクハ1、キクハ4 83.2.25 水海道 |
昼間はあまり用事がないラッシュの助っ人として起用されたからでしょう。
キサハ66 83.2.25 水海道 |
こちらは付随車、キサハ。
キサハは既に持て余し気味。
休車状態でした。
キサハ67 83.2.25 水海道 |
キサハの列、反対側から。
小田急の電車改造車の廃車は1984年までに実施されていますので、キサハ65形はこの時点でも既に籍が無かったのかもしれません。
11 件のコメント:
小田急の元電車を牽引する役は、南海からのキハ55も受け持っていましたね。
南海キハ・小田急クハは西武所沢にて譲渡改造を行ったようですが、オンレールで運ばれたのでしょうか?
キクハ1~4が主に元小田急のキハ751~754および元南海のキハ755と組んだのは、これらの気動車が2機関搭載車だったことによります。いわばキハ751形+キクハ1型が普通の1機関搭載車の2両編成とパワー的には等価であったことになります。
また、キサハ65~67ですが、小田急から譲渡直後の改造待機している頃の情報が当時のRP誌のTopic Photosに報告されており、「キクハ1型への追加改造」が予想されていたのですが、結局さらに安価な「キサハ」という選択肢になりました。「キサハ」が登場した背景としては、常総線が非常に平坦でほとんど勾配が無いために、上記の1機関搭載車の2両編成の間にキサハを挟む、という運転が可能だったことがあります。一番上の写真のキハ901形も、昭和40年代は間にキサハを挟んだ3両編成での使用が結構見られました。実は「ほとんど勾配が無い」ことが後の取手駅の事故の遠因になったらしく、勾配が無いために「ブレーキの不調に気づきにくかった」という事情があるようです。
昭和40年代は常総線にはキクハ、キサハが結構多かったのですが、動力が無いために身動きがとりにくい、という不利な点は覆いがたかったようで、
昭和50年代にキハ310形、キハ0型の導入で優先的に廃車されており、最後の無動力車となったキクハ1型は確か昭和60年にキハ0形007, 008の入線とともに廃車になっています。
12号線さん
西武所沢の中古車販売は大抵甲種回送していましたので、きっとオンレールだったのではないでしょうか?
原口さん
コメントありがとうございます。
当初は全部キクハにしようとしていたとは知りませんでした。
確かに常総線は平坦だったのでこんな芸当が出来たのでしょうね。
今は違うのかも知れませんが、当時の常総線はイライラするほどテレテレ走っていたのが印象に残っています。
元・いきもの部長さん、初めまして
新車と中古車のコストパフォーマンスですが、関東鉄道自身の見解がRP96-4号増刊「関東地方のローカル私鉄」にまとめられています(P55~57)。それによると、昭和38年入線のキハ900形と同時期の中古車のキハ705が車体の寸法などが近似しており、両車のコストはキハ900形が1両2257万円なのに対し、キハ705は改造費を含めても600万円で、新車は中古車の3.8倍の初期投資がかかる、とのことです。なお、物価の比較として、昭和39年当時のRP誌の価格は170円でした。
昭和39年のRP誌中の「私鉄車両めぐり」で常総筑波鉄道が取り上げられており、この中で、当時登場したばかりのキハ900形にも触れられています。この中で「追加増備を予定」と記載されているのですが、結局増備されずに終わったのは上記のコストパフォーマンスが気になったものと思われます。
中古車については、状態の良いものが入手できればそれに越したことはないわけで、昭和40年代はこの環境がそろっていました。1990年代のRP誌のキハ20系やキハ10系の特集にもあるのですが、昭和20年代末から30年代にかけて北海道の炭鉱系私鉄が積極的に新型気動車を導入しています。当時の単行が景気が良かったことを反映しているのですが、昭和40年代に入ると炭鉱が急速に斜陽化して、炭鉱系私鉄も次々と廃止になり、新しい気動車が大量に中古車市場に放出されました。これを積極的に買い込んだのが当時の関東鉄道と茨城交通で、ひたちなか海浜鉄道キハ2004, 2005(元留萌鉄道)とキハ22 2(元羽幌炭鉱鉄道)が現在も現役です。
元電車の客車のオハ801形ですが、オハフ801,803が昭和45年の廃車でした。鉾田線では、朝ラッシュ時に玉造町で気動車の上り列車の後ろに連結し、石岡で後ろに連結しなおして下り列車で玉造町に下り、解放される、という使われ方だったようです。
元・いきもの部長さん
関東鉄道の焼け電は本当にベコベコでしたね。
焼け電改造客車は気動車と同色にならなかったのはなぜだったのでしょうか?
南武の電車のほうは予想外に気動車になって活躍したのも面白いですね。
私が見れた気動車改造電車は小湊だけでした。
原口さん
地方私鉄が新車を投入出来た時代は昭和30年代が最後の山でしたね。
関東鉄道が譲渡車にシフトしたのもその時代の背景からもっともな選択だったのでしょう。
オハ801形の運用、のんびりとした時代を象徴するような運用だったのですね。
光景が目に浮かびます。
元電車の客車は鉾田線で気動車に牽引されていたんですね。
三井芦別鉄道でも焼け電改造客車が気動車に牽引されていました。
その気動車が旅客営業廃止によって関東鉄道鉾田線にやって来たのは運命のいたずらでしょうか?
それから、小田急の元電車が活躍できた一因は、ホームが高くステップレスのまま使えたことかもしれません。
2枚目の写真に見られるように、キハ751形では既存扉の下辺を切り上げています。
Wikipediaによれば、1959年のキハ500形導入時に常総線・筑波線のホーム基準面の高さは910mmとされたとあります。
接続する常磐線も、交流電化に伴う401系導入で、ホームの嵩上げが行われているはずです。
これに合わせたのかもしれません。
余談になりますが、北陸ではステップレスの521系導入で、ホームの嵩上げが行われているそうです。
元・いきもの部長さん
戦後の車両不足の時代には焼け電も重宝されたようですね。
国電叩き直しの客車は電車好きには興味深々です。
小田急1650が活躍できた訳はたしかにそのあたりにもありそうですね。
こんばんは。
平坦な地形ゆえのことと思いますが、それでも当時の気動車の性能で付随車をつなげ、ラッシュ時に多くの乗客を乗せたら、スピードも出ず、加速も本当にゆっくりだったのではないかと思います。
JR北海道で客車を改造した気動車が付随車を編成に組み込んでいたものがありましたが、エンジンの馬力は2.5倍近くに向上していました。まさに時代が違うと感じるときです。
常総線は沿線の人口が増え、車両の確保が最大の課題だったのでしょう。時代の徒花のような存在なのかもしれません。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
風旅記さん
常総線の列車は本当にノンビリと走っていました。あのスピードだから、トレーラーも活躍出来たのでしょうね。
つくばエクスプレスも無いこの時代は輸送力が逼迫していたのでしょうね。
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