2018年3月8日木曜日

「80系湘南電車 最後の頃」発売になります!

西武の赤電に続いての拙著版鉄道車輌ガイドが完成しました!
今回は湘南電車80系電車です。


RMM誌広告から

こちらはRMモデルス2月発売号の広告です。
鉄道車輌ガイドでは以前に80系300番台が発売されていますが、今回は初期車から200番台を中心に300番台までを含めて80系電車が総括的に見れるものにしました。
歴的な部分はこれまでも多くの方が書かれていますので、その部分は最小限に留め、私が接することが出来た晩年10年間の車輌画像で、なるべく模型製作で役に立てるように編集しました。
もちろん、歴史編も怠ってはいません。久保敏さんの貴重な画像をふんだんに使わせていただいて主に形態変化を中心に解説しています。
車輌画像は各年度の変化がわかる様に揃え、必要に応じて1,3位両側の画像を並べています。




走行写真は私の年齢では形式写真を撮りに行くのが精一杯で、なかなか走行シーンを撮影するゆとりがなく、特に山陽本線では走行シーンまで全く手が回りませんでした。
なので、腰を据えて走行シーンを撮影できたのは置き換えが少し遅れたこの中央西線以降の姿ぐらいしか押さえられていませんので、先輩諸氏から画像をお借りして、まとめました。



こちらは表紙に使った画像です。
こちらも中央西線、落合川付近の画像で高校から大学進学当初までの画像なので拙くてお恥ずかしいのですが、これが当時としてはこれでも精一杯だった感じでした。



こちらは、飯田線での最後の活躍の姿。
本線では魅力的であった80系電車ですが、飯田線では都落ち感が強く、色褪せて見えたものです。





発売は3月9日。
よろしかったら、店頭で・ネットでお買い上げください!!

4 件のコメント:

  1. モハメイドペーパー2018年3月8日 20:15

     物心ついた頃から湘南電車といえばサロ2両を真ん中にした10連で、これ以外は考えられません。153系も登場当初は新湘南型といっていましたが、普及しなかったですね。

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  2. モハメイドペーパーさん
    今回もご協力いただき、ありがとうございました。
    サロを2輌繋いだ編成の時代に一日でいいのでどこでもドアで行きたいものです。

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  3. 私も「80系湘南電車 最後の頃」を購入しました。

    クハ86100台の渡り(本文中で両栓・片栓と表現しているもの)ですが、P20のように100番台後期型から両渡りになっていると記述している文献(最盛期の国鉄車両)もあれば、300番台から(旧型国電50年)もあります。「最盛期の国鉄車両」」では、その後前期型も両渡りに改造されたという記述もありますが、300番台のように、方向にかかわらず運転席側腰板にジャンパ栓納めが3個、床下の連結器の両側にジャンパ栓が3個ずつ付いている形態になっている車両が見つからないため、クハ86100台の「両渡り」の記述は疑問視されています。
    100番台の「寒地型」の区分は、最初の合計13両だけが一般型で、80206, 86104, 87103以降が「寒地型」で、別個に86119, 121~132, 134が腰板にタイフォンを腰板に装備した(旧型国電50年)の記述もあります。新製配属先を見ると、「一般型」に入る車は田町、他の車は高崎(高崎線用)と宮原(湖東線:東海道本線米原―京都間)で、タイフォンを腰板に装備した車は前期型の宮原配属車に相当します。

    300番台の塗り分けの腰板の緑色のかさ上げは、吹田工場で1963年頃から始まったようです。RP誌の2000年代の80系特集に1963年の京阪神快速線の80系の写真があり、300番台で塗り分けの高い車と低い車が混じっていることが確認できます。この塗り分けのかさ上げは吹田工場で継続しており、岡山の80系は吹田工場入場のため、300番台は全て塗り分けがかさ上げされました。これに対して広島と下関の80系は広島車両所入場のため、どうなっていたかというと、「ケースバイケース」でした。京阪神快速線、岡山経由の、塗り分けの高い車はそのまま高い塗り分けを継承し、東海地区から転入した塗り分けの低い車は低い塗り分けを維持していました。また、岡山から東海へ転属した車はどうだったかというと、「高さを低く改めた」ことが確認されています。

    パンタをPS23に換装した車は、パンタ脇のランボードを切り欠いたことが確認されています。「我が心の飯田線掲示板」が発足した2004年に話題になったのですが、「PS23の擦り板のホーンをよけるために切り欠いたのではないか」との説が出ました。P37にパンタをPS23に換装したモハ80079の写真があり、パンタが下りているので、「パンタのシューをよけるために切り欠いた」ことがよくわかります。

    1955年度車の大きな謎となっているのが、モハ80型への「簡易運転台」の装備状況です。準急「伊那」増結用のモハ80300番台への簡易運転台の装備は、写真が多く残っているために状況が明らか(屋根上の前照灯の装備、1位側妻の腰板への標識灯の装備、元は妻窓も未改造で、後からHゴム窓に変更されたこと等)なのですが、1955年度車は、どちらの方向に簡易運転台が付いたか、何両に簡易運転台が付いたか、記述の揺れが大きく、「我が心の飯田線掲示板」で何度か話題になっていながら状況がわからない謎の存在でした。簡易運転台が付いた状況は、名古屋地区での2両増結運用の設定に伴うもので、増結車が下り方に連結されたことが確認されたので、簡易運転台は上り寄り(パンタ側)に付けられたことが推測され、その後、最近のRF誌に2位側妻の腰板に標識灯が付いたモハ80103の写真が発表されたことから、簡易運転台の形態については情報が確定しました。

    湘南型前面の車は、秩父鉄道デハ300型、500型と東武キハ2000型は地元で長らく馴染みの車でした。他、西武鉄道の車も池袋駅でよく見ており、鹿島鉄道の車は最末期にキハ431型とキハ714型を見ています。

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  4. 原口さん
    コメントありがとうございます。
    100番台の両栓のことも含めて資料によって記載が異なるものは多いです。
    このような本を作る時には悩むところですが、基本的には自分が確認できたものだけを記載するようにしました。
    資料にあっても自分で確認できないものの掲載は怖いですね。

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