2017年1月22日日曜日

東武熊谷線

東武鉄道で異色の存在であった熊谷線。
そろそろ廃止が近いと聞いて1981年の夏休みに出掛けました。

キハ2001 81.8.4 大幡ー妻沼

沿線は熊谷の市街地を抜けたらひたすら田んぼの中を走って、終点妻沼まであまり変化のない景色が続いていた記憶があります。
どこで撮っても一緒だな、と思いながら田んぼの中で待ちました。

キハ2001 81.8.4 大幡ー妻沼

もう一本も安直に撮影、これにて飽きてしまったのか秩父鉄道に移動しています。
東武熊谷線は2年後に廃止、東武の気動車の走行写真はこの時だけに終わりました。

16 件のコメント:

  1. モハメイドペーパー2017年1月22日 10:48

     確かにどこで撮ってもあまり変わらなそうですね。曇り空をバックにこの色は、カメラマン泣かせです。

    返信削除
  2. 通りすがりの642017年1月22日 14:23

    高崎線で通っていたころ熊谷を出るとしばらく併走区間があるのでこれに出会えるとうれしかったものです。
    学校の帰りに寄り道して妻沼まで撮りに行ったことがありましたが、乗ったのはたった1回だけでした。
    さよなら運転にも行きましたが、葬鉄の方で超満員でしたね。。

    返信削除
  3. モハメイドペーパーさん
    変哲のない風景で撮るのに困ったなんて考えて見たら贅沢な話ですね。

    返信削除
  4. 通りすがりの64さん
    あそこで出会うのはかなりラッキーですね。

    返信削除
  5. 尾小屋鉄道からの帰り、夜行列車を熊谷で途中下車して訪ねたのが最初でした。
    変化のない景色と全部同形の車両と魅力の少ない上に、人家の少ない大幡~妻沼間が5.7キロと離れていて歩いて撮影するのが大変でした。

    返信削除
  6. 東武熊谷線の終点があった妻沼には、4年前の夏、猛暑の中に訪れています。妻沼町(熊谷市に合併)の中心部に「妻沼聖天」という寺院があり、お堂に絢爛豪華な彫刻が施されて「埼玉の小日光」の異名があり、その前年に国宝に指定されたばかりでした。熊谷駅前でバスが待っていたので早速乗って、そのお寺を見に行ったのですが、時刻表を見ると何と妻沼まで1時間に3~4本、熊谷線がついに渡れなかった利根川を越えて太田まで行くバスも1時間に1本程度あって、「あの1両だけのディーゼルが1時間に1本あるかないか、という路線がそんなに繁昌していたのか」と驚いたものでした。集落を縫って走り、妻沼町の中心も通るバスに対し、熊谷線は元々大泉町・太田方面の軍需工場への路線として突貫工事で敷かれたため、集落から離れた場所を通り沿線住民にとって不便で使いづらかったこと、終戦により未完成のまま残された利根川の橋が架かって全通すると、群馬県南東部の沿線住民が熊谷から高崎線に出てしまい、客を取られるのを東武が嫌って、わざと橋を架けず中途半端な形のままにしたのでは、と言う噂も聞かれたものでした。

    返信削除
  7. 最近高崎線で良く上毛電鉄とかに乗りに行く都度、熊谷駅でや高崎線の車窓から熊谷線の廃線跡を見ます。最近は乗っておけば良かったとちょっぴり思います。
    熊谷線廃線の記事が載った時の鉄道ファンが京王5000系特集だった事を思い出します。

    返信削除
  8. 三等急電さん
    尾小屋の帰り道とは時代を感じさせますね。
    駅間距離が長くて、何もないという印象が私も強いです。

    返信削除
  9. 伊豆之国 さん
    目的が目的でしたから中途半端なことになったのは仕方ないのでしょうね。
    渡る予定だった橋の場所も二度目の訪問で対岸を含めて見に行きました。

    返信削除
  10. 宵闇 さん
    今でも高崎線の車窓から廃線跡が一部見えますね。
    わざわざ行くには微妙な路線でしたね。

    返信削除
  11. 心は加賀人2017年1月23日 19:11

    初めまして。
    懐かしくて投稿いたしました。
    私事ですが、熊谷線に初めて乗ったのが昭和48年で、当時はまだオレンジ/クリームの旧塗装の時代でした。
    何の予備知識もない小学生の頃でしたから、降りたら何もない終点妻沼に面食らったのと、終点の先に延びていた草むした線路が謎でした。
    その10年後に廃線を迎えたわけですが、最終日の5月31日はものすごい人だかりでした。
    その日は乗車せず、クルマで沿線風景を撮影したのち、妻沼着の最終列車を見届け、駅事務室内の撤収の頃にはさすがに人だかりは引けていましたが、最後の最後まで廃止風景を見届けました。
    翌朝も訪問したら、ちょうど、キハ2000が地元の公民館に保存されるため、引き込み線に入るところでした。
    そのキハ2000は今も変わらず大切に保存されているのが嬉しいですね。

    返信削除
  12. 東武に非電化路線があるのを知ったのが1975年。乗車したのが1976年でした。
    キハ2000の車内はせまく、背ずりの高さも低いようでした。
    乗りごこちはひし形台車の関係かあまりよくありませんでした。が、運転席横までロングシートがありましたので前面展望ができました。
    車両はキハ2002が近くの区民センターに保存されていますが、キハ2001はしばらく保管されてましたが結局解体。キハ2003は千葉県のある町で学習塾に使われてましたが、これも解体されました。

    返信削除
  13. 心は加賀人 さん

    初めまして。
    熊谷線の最後を見届けられたのですね。
    最後の姿をみるのは寂しいもんですね。
    私はこの手のものは行かない主義でしたが、新潟交通では見てしまいました。

    返信削除
  14. taiitis さん
    この手の気動車の車内は簡素でしたね。
    全車が保存されても大概が解体されちゃうのが日本の悲しいところです。

    返信削除
  15. 妻沼線(東武熊谷線の地元での呼び名)は、よく見ていました。籠原から熊谷へど向くとき、国道17号をずっと走ると妻沼線が築堤で17号を超えており、また、熊谷バイパス(当時は熊谷―行田間だけで、より西側のバイパスは2000年代に入ってからの開通)を行くと、バイパスの方が築堤から少し持ち上がって橋になって妻沼線を越えていました。両方とも、時間が合えば単行あるいは2両編成の妻沼線の列車を見ることができました。

    taiitisさんが紹介している区民センター保存のキハ2002は数年前の初詣(伊豆之国さんが紹介している「妻沼聖天」通称「聖天さま」)へ行ったとき、帰りに寄って見てきました。「我が心の飯田線掲示板」の方にも写真を紹介しているので、気が向いたら見てみてください。

    妻沼線は見てはいるのですが、行動範囲にあっていなかったので、地元ではありますが乗らずに終わっています。時代は下って、2006年1月に鹿島鉄道へ行き、東武キハ2000型と同形の鹿島鉄道キハ431型(元加越能鉄道キハ125型)に乗ったのですが、路盤状態とコイルばねの特性からか、ポンポンと弾むような揺れで、「オハ61系鋼体化客車が高速で走るときの振動」にも例えられるものでした。

    返信削除
  16. 原口さん
    区民センターの保存車、見に行こうと思いながら未だに果たせていません。
    鹿島鉄道に居た同じ仲間の車輌、私も乗りましたが外観以上に古っぷるしい走りで、乗り心地は決して良くはなかったですね。

    返信削除

コメントはフリーでお受けしています。しかし、個人的なブログですので、リプライ及び不適切と判断したコメントの削除は管理人判断で行ないます。