Thursday, December 8, 2016

17M国電の廃車回送 その2回目



クハ16007 81.3.20 西国分寺

1980年の暮れに南武線支線の17M国電の廃車回送を見ましたが、残った4両の17M国電の廃車回送はその後すぐには行われませんでした。
その残った4両の廃車回送の情報が2月になってから同じ友人経由で入ったので、二回目も出撃しました。
二回目は中央線の西国分寺に向かいました。
何せ、首都圏中心部でのぶどう色の旅客列車は自分の年代ではせいぜい親に連れられて電車に乗った時の記憶が精一杯でしたので、その実車の走行シーンを撮れるのは残念ながらこのような機会しかありませんでしたので、それは万難を排してでも行くしかありません。
それも17M国電の走行シーン撮影チャンスは泣いても笑っても2回しかありませんでしたので尚更です。
ただ、何故場所を西国分寺にしたのかは今となっては納得がいきません。


クハ101-7 81.3.20 西国分寺

目的の電車が来るまでは101系電車で練習です。

クモハ101-93 81.3.20 西国分寺

こちらは何気なく撮ったクモハ101。
右手の上り線を走る101系は低屋根車が組み込まれた山岳区間乗り入れ可能編成です。


クハ16003 81.3.20 西国分寺


そして、本命。
キタ━(゚∀゚)━!!

当時は架線柱も大半が木製であったことが分かります。

クハ16003 81.3.20 西国分寺


キタ、キタ~。
シャッターを切る手が震えます。

クモハ11248 81.3.20 西国分寺


振り向いてクモハ11をパチリ。
この時の編成はクハ16007+クモハ11222+クハ16211+クモハ11248でした。
前回同様に両端が旧31系で固められていました。
これはこれで格好良いものの、できればクハは旧30系のクハ16211が顔を出してもらいたかった気もします。

サヨナラ・・・・


これで本当に見納めです。
ファインダーから目を離して、姿が視界から消えるまで我が目で見送りました。



8 comments:

  1. モハメイドペーパーDecember 8, 2016 at 2:48 PM

    物心ついた時から見ているから、電車の原点という感じです。新製からほぼ半世紀を経ても、車体はまだしっかりしていますね。 

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  2. 愛知県在住の長野の鉄道ファン

    さすがに2回目は行けませんでした。
    私もこちらのブログに検査掛のハンドルネームでボチボチに撮り貯めた旧型国電をアップしています。よろしければご覧ください。
    http://b1hanabusa.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-c147.html

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  3. モハメイドペーパーさん
    昨日はありがとうございました。
    昭和初めの電車は頑丈に出来ていましたね。

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  4. 匿名さん
    何度か拝見しているブログですね。
    仙石線のお写真、懐かしいです。
    特に塩釜のガーター橋は今となっては信じられない光景ですよね。
    これから楽しみにしております。

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  5. 2回目は17M車だけだったんですね。
    最近は、ファインダーから目を離しても見送らず、液晶をじっと見続ける人ばかりになりました。
    またまた話が本題から逸れますが、101系は最初にパンタ部分のみを低くした低屋根車と思われます。
    改造車では、翌昭和37年改造のクモハ41が最初です。

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  6. 三等急電さん
    そうですね、カメラも携帯同様液晶を見つめるものになってしまいました。
    できれば肉眼で列車を見送りたいという気持ちは今も変わりません。

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  7. 浜川崎線17m車の廃車回送は「我が心の飯田線掲示板」でも当時の写真が紹介されたことがあります。

    三等急電さんが触れている101系800番台ですが、新製時に極めて複雑なユニット組み替えを行ったことが確認されています。最初、山手線へ投入予定のモハ、クモハ101と組んだ状態で落成し、確か池袋電車区へ回送されてユニット組み替えを行い、その後で三鷹電車区へ移動しています。このため、違う色の車がユニットを組んで甲種輸送されているところが目撃されています。

    遅ればせながら、「鉄道車両ガイド クモニ83と仲間たち」を購入しました。
    P30の避雷器の位置(3)ですが、避雷器が後ろにあるのは昭和50年に入ってから落成の83026~029が該当します。この位置になったのは昭和48年10月の中央西線、篠ノ井線電化が関係しています。両線電化では中央東線の800番台車の存在や、PS23パンタグラフの開発もあり、PS23使用を前提としてトンネルが小断面になりました。このため、両線で使用予定の、松本運転所に配属された80系、70系、165系がPS23パンタグラフ搭載に改造されることになり、同時に避雷器もパンタの後ろの中心線上に移りました。この移動は小断面トンネルの限界から遠ざけるためという説があります。クモニ83026~029もこの方針に従った避雷器のレイアウトを取り入れたと考えられます。80系、70系ではさらにパンタの折り畳み高さが低くなったため、パンタ横のランボードとパンタのシューとの干渉を避けるためにランボードに切り欠きを設けています。
    一方で、83022~025が避雷器位置がそのままでPS23になっているのは、改造が1年早い(中央西線、篠ノ井線電化から間もない)ため、避雷器配置の方針が徹底していなかった、という可能性があります。

    私の場合、クモニ83型4両編成は、57-11改正で設定されたクモユ141と長野からのクモニ143、クモユ141or143を加えた7両編成がなじみでした。ちょうど午後4時ごろに下り列車が籠原駅を通過し、学校帰りにしばしば見に行っていました。同列車は59-2改正でクモニ83が1両減車され、60-3改正で身延線からのクモユニ143に交替しています。

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  8. 原口さん
    クモニ83の本、購入ありがとうございました。
    避雷器の件、なるほどですね。
    でも、位置が違うのがある辺り、やらなくても大丈夫だったということなのでしょうね。

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