以上、ウィキペディアからでした。
そんな国鉄時代の板橋駅の風景です。
クモハ73351 79.8.6 板橋 |
板橋駅の画像が残っていたのは、この電車が走ったからでした。
上り線で小停車をした軌道試験列車を撮ったシーンですが、今見ると左右に広がる側線に目が行ってしまいます。
板橋駅はJR化後も貨物扱いを続けていた都内では数少ない駅でもありました。
クモハ73351 79.8.6 板橋 |
上り線右手(上写真の右)には2本の側線があり、画面手前の住友セメントの積み込み施設まで延びていました。
クハE233-7031 16.4.3 板橋 |
恐らく同じ場所です。
今は側線は無くなり、ホームの端っこまで上屋が伸びています。
クモハ73086 79.8.6 板橋 |
クモハ73が池袋方へ去ってゆきます。
左手の側線は4本に増え、右手にもトラ、トキが休んでいます。
クモハ73351 79.8.6 板橋 |
電柱がうっとうしい画像で恐縮ですが、当時の池袋方の構内全景です。
左右に貨物線があって貨車が止まっている風景はすっかり過去のものとなってしまいました。
池袋の次の駅とは思えないのんびりとした光景です。
手前の邪魔者の電柱も今見ると木製で良い記録になったと自分を納得させます。
16.4.3 板橋 |
今はこんな感じです。
何ともツマラン風景となってしまっております。
クハ103-50 79.8.6 板橋 |
下りにはカナリヤ色の非冷房103系が入って来ました。
まだクハ103の正面ベンチレーターが埋まっていません。
少し前までは101系が充当されていました(こちらに1カットだけ画像があります➡http://tsurikakedensha.blogspot.jp/2015/05/blog-post_13.html )。
当然ながら当時の赤羽線は池袋~赤羽の線内折り返し運行でした。
クハE232-7023 16.4.3 板橋 |
今の同じ場所で見た103けーです。
貨車のいた場所付近はマンションに。
DD1371 79.8.6 板橋 |
構内入換えにはDD13が従事していました。
開けられる扉をすべて開けて構内をのんびりと走っていました。
朝晩山手貨物線を単機回送している姿を何回か見ました。
写真は、フィルムを入れ替えた時の捨て駒なので、機関車も全体が映り込んでいないですが、今となっては貴重な気がします。
91.2.20 板橋 |
こちらはJR化後に撮った住友セメントの積み込み施設です。
画面左奥が板橋駅ホームです。
91.2.20 板橋 |
右を振り向きました。
こんなところにダブルスリップがあったのですね。
91.2.20 板橋 |
この積み込み施設には必ずトキが2輌程度押し込まれていました。
91.2.20 板橋 |
貨物線末端部を振り返ります。
画面中央の建物に線路が二本吸い込まれています。
この中がどうなっているのか、車内からいつも気になっていましたが分からずじまいでした。
その倉庫の右奥はもう東武線の北池袋駅構内です。
91年は既に205系が活躍していました。
その右手には東武8000系の姿が見えます。
91.2.20 板橋 |
こんなクラッシックなミキサー車も居ました。
街歩きも感動が減って、どうもモチベーションが上がらない今日この頃です。
16 件のコメント:
ここへは大宮方面からの貨物列車が1往復あり(午前着、午後発)、東京オリンピックの頃までは牽引機がD51でした。板橋にはターンテーブルがないので、帰りはバック運転というオマケ付きで、私も何度か見た覚えはあります。でも、真面目にカメラを向けている人は見かけなかったですね。
東上線では見かけなかった、東武のトキ1が板橋駅の常連でしたね。
一般仕様に改造された、クハ103-178・179も103系化にあわせて赤羽線で運用されていたかと思われます。
同車では正面・側面幕ともに「赤羽線」でしたが、非冷房車のような区間表示コマはなかったのでしょうか。
板橋駅の住友セメントの施設は積み込み施設と言うよりは取り降し(下ろし?卸し?)施設でした。東武鉄道の葛生の奥の上白石から運んできたセメントと砕石をここで生コンにしてました。(故にミキサー車がいる)線路の引き込まれた建物はバラ積セメントの取り降し設備の上屋でした。
モハメイドペーパーさん
さすが、その頃のことをご覧になっているのですね。
私は写真でしか知らない頃です。
エコーモデル阿部さんの写真を見ると以前は構内はもっと貨物側線があったみたいですね。
12号線さん
東武のトキは良く池袋にも止まっているのを見た記憶があります。
埼京線の通勤電車の窓越しに板橋のトキは良く見ました。
その当時は2両単位で運用されている感じでした。
クハ103の件、私もおぼろげながらそんな記憶があります。
奥山田 三郎さん
ご指摘の通りですね。積み込みじゃなくて、取り卸しでしたね。
ここからセメントが都内の建設現場に向かったのですものね。
電車通学していた高校生の頃、帰宅時に大船始発の根岸線の先頭車に毎日乗っていた事と、
電車好きだった事もあり、幾人かの運転士さんと顔見知りになり、時々話したりする時もありましたが、
その時聞いた話では、103系初期車前面のベンチレータを鉄板で塞ぐのは、冬の隙間風対策だと聞きました。
前面のベンチレータは夏の暑い時の通風には抜群だけど、冬はレバーを“閉”位置にしていても隙間風が酷く、
特に早朝の出区したての車両の乗務では凍死しそうに寒いので、夏以外には鉄板でフタしているとの事でした。
ジモティーさん
運転手さんの実話、面白そうですね。
私は人ずてに同様の話を聞きました。
当時は窓の下の通風口や貫通扉を冬場はガムテープで塞いでいるのを良く見ましたね。
正面は風をもろ受けるから冬場はきついのでしょうね。
大変、貴重な写真を見せていただき、どうもありがとうございました。私も当時、赤羽に住んでいました。赤羽駅の南側で東北線と赤羽線が別れて付近に、渡り線があり、1978年頃まで残っていました。赤羽線の貨物列車が、かつてそこを通っていたのか、赤羽駅を抜けていたのか、定かではありません。
板橋界隈の想い出といえば、鉄より酒です。
駅前のコの字カウンターの大箱の居酒屋や、TJ線北池袋に知り合いの彼女がスナックやってたりと、そんな記憶が強烈です。そのころは非鉄分が一番多かったころでしたが、DSの存在には着付いてました。
クモハ73の後方に見えるのは板橋のランドマークだったガスタンク(東京ガス滝野川整圧所)ですね。
貯めたガスの量によってタンクが上下するタイプで、タンク本体が見えないのはガスが少ないか既にタンクの使用を停止していたからでしょうか。
DD13が電車が行き交う本線を渡って入換をする様子を懐かしく思い出しました。
住友セメントの引き込み線もいい雰囲気です。
そういえば近くのTJ線下板橋にもセメント施設がありました。
NRさん
懐かしくご覧いただければ幸いです。
赤羽の渡り線、そう言えばあったような記憶が蘇ってきました。きっとそれを使って貨物列車は往き来していたのでしょうね。
Cedarさん
さすが、飲みの守備範囲が広いですね!
北池袋のスナックとは場末感がありそうです。
三等急電さん
ガスタンクのことはすっかり忘れていましたが、ありましたね。
我が家の近くににも6個あって、子供の頃地震があったら柱が外れて転がるんだ、と噂されていました。
>運転手さんの実話、面白そうですね。
実際、面白いものばかりでした。例を挙げると、
非冷房初期車の103系と比べて、ATCクハで全車冷房の編成は10両編成で合計50トンも重くなってしまった為、
ラッシュ時の回復運転の際、駅間の長い東海道線区間でも中々100Km/hまで出ない(当時はATS時代でした)話や、
101系の初期応答性が良く扱い易く感じるブレーキに比べ、103系はややタイムラグはあるが電気ブレーキの効きが良く、
限界運転での突込み停車では、大丈夫だと思っていた101系の方が案外オーバーランになる話。
また、鉄道雑誌で見た、中央快速線運転士の「103系のオフブレーキ運転は、電制がフェイルするので出来ない」
という話しに対して、「それは中央線の運転士が103系の扱いに慣れてないからで、それこそ回復運転時には、
103系で駅毎にオフブレーキ運転しているが、何の問題も無い」と言う話しなんかが印象に残っています。
極めつけは、学校帰りが夕方遅くなった時、何と下車駅の山手まで運転室に乗せてもらった事もあります。
因みに車両はクモハ103‐126でしたが、今考えると未だおおらかな時代でした。
ジモティーさん
運転の現場の話は面白いですよね。
冷房車と非冷房車で加速にかなり差がある話なんて、なるほどな話です。
運転室同乗、羨ましい話です。
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