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2015年9月16日水曜日

西武山口線

おとぎ列車と呼ばれていた西武山口線は、新交通システムに転換される前は純然たる鉄道事業の軽便鉄道でした。
そして、その山口線には軽便蒸気機関車が古典的な木造客車を牽引して走っていました。
都会からすぐ行ける現役蒸気機関車が走る路線であったことなんて最近の人には全くピンと来ない話でしょう。
この山口線ですが、おとぎ列車のイメージが何と無く強くて、近くにあった割にはあまり訪問することがありませんでした。

そんな中で、何故か1982年は桜を求めて2回出かけています。

532 82.3.29 山口信号所

まずは一回目の訪問です。
こちらがその時に出会った機関車です。

B12(左)、532(右)
 82.3.29 山口信号所

列車はバテロコのいかにもおとぎ列車な編成と蒸気列車の編成の2本が運用されていました。
れっきとした地方交通線ですので、バテロコの機関士はタブレットを腕に抱えています。

B12 82.3.29 遊園地前ーユネスコ村

きっと花見を兼ねていったのでしょうが、桜はまだちょっと早かったようです。

 82.3.29 遊園地前ーユネスコ村

うすら寒い週末、汽車が通過します。


527 82.4.6 遊園地前

桜が今一つの開花であったため、一週間後にもう一度出かけました。
こちらは遊園地前で発車待ちの客車列車。

32 82.4.6 遊園地前

木造ダブルルーフの井笠の客車たち。
こんなにも古典的な車両がこの時代に走っていたのは奇跡的かも知れません。

527 82.4.6 遊園地前

遊園地前を発車する汽車。

B12 82.4.6 遊園地前ーユネスコ村

汽車が走っているときでももう一本の列車は従来のバテロコ牽引でした。
当時はバカにしていましたが、これもこれで貴重なものでした。

527 82.4.6 遊園地前ーユネスコ村

満開の桜の中を往く軽便列車。
夢のような世界でありました。

527 82.4.6 遊園地前ーユネスコ村

眼前をゆっくりと通過してゆきます。

32 82.4.6 遊園地前ーユネスコ村

走り去る木造の客車。

今考えると、もっとちゃんと見たり撮ったりすべきでした。
いつまでもあるような気がしているうちに新交通システムに代替、廃線になってしまいました。

18 件のコメント:

C571 さんのコメント...

小湊SLもこんな木造ダブルを引けば、なおさら絵になるなあ(^^;;

丸窓鉄道管理局 さんのコメント...

掲載された撮影年は高校を卒業した年。武蔵野に住んでいたので
いくらでも行く機会は有ったのに、行かず終い。
1枚の写真も有馬線(大泣)
自分の“ずく”の無さが悔やまれます。。。。。

いつまでも在ると思うな親と金。プラス+鉄道、ですね。

赤影 さんのコメント...

勝手に以心伝心企画、ありがとうございます(笑)
台湾のロコはやっぱり井笠の客車に比べてちょっと大きいのが残念ですね。
でも西武はこの台湾の機関車入線のために、トンネルを切通しに開削し、橋を架け替えたのですから気合はいってましたなぁ。。。

chitetsu さんのコメント...

C571さん
どうせなら、こんなのにして欲しかったですね。
アメリカにはスチール製のなんちゃって木造ダブルルーフ客車があるみたいですし。

chitetsu さんのコメント...

丸窓鉄道管理局さん
そうなんですよね。
あって当たり前な時は、なかなか足が向かないのは人間の性なのでしょうか?
いつでも、今が旬なのでしょうね。

chitetsu さんのコメント...

赤影さん
アップしてからFB見てありゃりゃと思いました!
台湾機関車入線時にそんな改修をしているとは思いませんでした。
もっと撮っときゃ良かった。。。。

伊豆之国 さんのコメント...

西武園のおとぎ列車には、小学生の頃、西武園の遊園地からユネスコ村まで乗った記憶がはっきり残っています。「地元」だったこともあり数え切れないほど行った二子玉川園や、モノレールができる前に乗った記憶がある向ヶ丘遊園、こんなおとぎ列車がまだあちこちにあった幼年時代の記憶は、昨日のことのように覚えていたのでした。ユネスコ村には、世界各地の民家を模した「小屋」があって、泊まれるようにもなっていたらしかったと記憶しています。
西武球場ができてから何年か後の頃、その埼玉西武ライオンズの試合を見に行った帰りに、SL列車に乗ったことがあり、これが最後の乗車経験になったのでした。線路が球場のすぐ横を通っていて、ライオンズが敗勢だったこともあり、試合そっちのけでスタンドの上から列車を見ていたことを思い出します。
井笠鉄道から来たという客車、バス会社になっていたその井笠が経営破綻したというニュースがありましたが、客車が里帰りした記念館は今はどうなったのでしょうか?

maru-ha さんのコメント...

無くなるとき、いろんな理由(噂?)を聞いたように思います。
 ◇中央線方面からの野球客を効率良く輸送するため、と先代会長の発想。
 ◇運輸省が新交通システムを広めるため補助金出したのから、先代会長がのっかった。
 ◇西武の冷房率を100%にするため

今さらですが、ここは残して欲しかったです。。。
小さいですが、蒸気ですのでドラフトや石炭の匂いは良いですからね。
切符もここだけは地紋の色が赤で、独特でした。

見てて面白かったのは、山口、中峯両信号所のタブレット交換。
通過列車の方は機関助手がタブレット受けに手を伸ばして取ってました。
国鉄でも少なくなってましたし、明治時代からの閉塞方式が生き残ってるって感じでした。

モハメイドペーパー さんのコメント...

 あらら、ここでも山口線が…。私は蒸機が大型化されてからは行かず仕舞いでした。
井笠の客車は平軸の台車だったので、どこからかコロ軸の台車を買い込んでそっくり取り替えました。
外した台車が所沢工場の野外資材置き場(実質的なゴミ捨て場)に山積みになっていたのを覚えています。

OER3001 さんのコメント...

小田急好きの小生も、子どもを連れて何回か訪れました。もっとも小生の幼稚園時代には遠足で乗っていますが。

chitetsu さんのコメント...

伊豆之国さん
ユネスコ村は遠足で行った記憶がありますが、宿泊できるとは知りませんでした。
井笠もよもや廃業するとは思いませんでした。
同社のバスで新山の記念館に行ったのを思い出します。

chitetsu さんのコメント...

maru-ha殿
どの噂も自分も聞いた気がします。
あれだけ古典的な設備を維持するのはさすがに経営的には手を打ちたかったのでしょうが、今となっては残しておけば賞賛ものであったのに残念ですね。

chitetsu さんのコメント...

モハメイドペーパーさん
記事拝見しました。
コッペル時代の山口線、行っておけば良かったです。
客車の台車はお得意のコロ軸改造していたのかと思っていましたが、履き替えていたとは!

chitetsu さんのコメント...

OER3001さん
子供を連れて出掛けて、親も楽しむには都合の良いところでしたね。
私が親になった時は既にレオライナーになっていました・・。

三等急電 さんのコメント...

いつでも行ける気がしてなかなか行かず、最初に訪ねたのは頸城2号機の最終年でした。
さらに、台湾機関車入誤は足が遠のき、新交通システム切替前にあわてて出かけました。
遊園地前駅には機回し線がなく、一度列車がバックした後に機関車を切り離し客車のみを下り勾配を利用してホームに入線させ最後に機関車を先頭に連結していたことを思い出します。

宵闇 さんのコメント...

今もしナローの山口線が現存していたら、別な意味での西武のドル箱路線になっていたでしょうね。
ひょっとしたらなかよし鉄道の車両等も山口線で走らせていたかも知れませんし、西武球場前駅が別な場所に出来ていたかも知れません。
ワタクシも乗れず仕舞いで終わってしまい、昭和61年ごろ西武球場から廃線跡を見ただけで終わってしまいました。

chitetsu さんのコメント...

三等急電さん
頸城の機関車に比べるとどうしても台湾の機関車は見劣りしますね。
私もそれが理由できっと行かなかったのですが、あの客車に乗れるだけでももうちょっと体験しておきたかったです。
遊園地前駅でそんな入換えしていたのは何故か全く記憶にないです。

chitetsu さんのコメント...

宵闇さん
れっきとした地方交通線であったことが、かえって命を短くしたのかもしれませんね。
まあ、おとぎ列車だった路線に汽車を走らせてくれただけでも良かったのかも知れません・・・。