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2015年8月15日土曜日

戦後70年でふと思い出したこと

今年は戦後70年。
その70年の折り返しの35年前は1980年にあたります。
そして、そのあと半分前が終戦の日というのも信じられない気がします。
そこでふと・・・・
35年前のこの日は何をしていたかな???とちょっと思い出してみました。

1980年はちょうど大学生になった年で、その夏は大学鉄研の先輩からの紹介で夏の鉄道絡みバイトの紹介が二件ありました。
一つは日本食堂のバイトで、上野駅で駅弁を売るバイト。
こちらは日勤でした。
もう一つは尾久客車区で車両の清掃のバイト。
こちらは日夜勤でシフト勤務でした。
同期の友人の多くはこのどちらかのバイトをやって、そのバイト代で9月に行われる鉄研の合宿に行く旅行費用に充てたのでした。

私は日夜勤務がちょっとネックではあったものの、車両に直接触れられる魅力から尾久客車区での車両清掃のバイトを選びました。

クハ1446 80.8.16 中村橋ー練馬

初めての通勤電車はこちら。
相変わらず片隅運転台のこんな電車が急行電車で走っていました。

尾久の客車区では、ベテラン社員に混じって朝出勤して翌朝までの一昼夜の勤務に組み込まれました。
一番忙しいのは、上野着の夜行列車が入線してくる午前と夕方の出庫前の時間帯でした。
逆に真昼間などには結構空き時間があります。
その時間は寝てようが、客が捨てた漫画を読んでいようが自由です。
そこで当然考えるのは客車の写真を撮ることで、これも休憩時間であれば堂々とじっくり撮れたわけです。
本日はそんな環境下で撮った35年前の尾久で寝ていた客車写真の一部をご紹介します。

スエ7185 80.8.16 尾久

客車区と言えば救援車が必ず居たものです。
こちらのスエ7185は戦災で焼けた電車を復旧した車両で、前歴はクハ58011とあります。
つまり、関西急電の末裔ということになります。
この救援車、出勤した事務所のすぐ脇に良く止まっていましたが、行くたびに位置が変わっていることも多く、たまには全然違うところに動いたりしていることもありました。
救援車は動かないものというイメージでしたが、そうとは限らないのですね。

マヤ342002 80.7.26 尾久

こちらはお馴染み軌道試験車です。

DD1325 80.8.1 尾久

構内入換はこの機関車がやっていました。
イコライザー台車で一つ目玉のDD13初期車です。
構内入換はお客さんが乗っていないので結構荒っぽい運転をしていて、車内で清掃中に動いたりするとポイントで転びそうになる勢いで運転する輩もいました。

スロフ812114 80.8.10 尾久

こちらは当時ブームになっていたお座敷客車です。
バイト期間中も殆ど入庫しなかった気がしますが、この日は品川の客車が止まっていました。

スロ812125 80.8.10 尾久

お座敷客車の車内です。
こんなところに勝手に入れるのも役得でした。
宴が終わって入庫したところであったので、散らかっていますね。
お座敷客車の車内に入ったのは後にも先にもこの一回だけでした。

オハ462678 80.8.15 尾久

こちらは常磐線に数往復残っていた長距離普通客車列車用のオハ46形です。
こんなのが、上野まで中電に混ざって普通にやって来ていたというのは今考えると驚きでありますね。
当時は何とも思いませんでしたが・・・。
客扉も新製時はプレスドアの筈ですが、このオハ46のように車両によっては古い木製扉が付いていたりしました。

オハ462498 80.8.10 尾久

こちらも同じオハ46形ですが、福井所属の急行越前の編成に組み込まれている座席車です。
『福井行』のサボが掛かっていました。
1980年はこのような旧型客車編成の急行列車の最晩年でした。

スロ622060 80.8.10 尾久

この編成の車両は一両ずつ撮っています。
次位にはロザのスロ62形が繋がっていました。

オハネフ132606 80.8.10 尾久

次はハネのオハネフ13形。
狭くて決して快適とは言えない寝台でした。
清掃していても狭くて嫌になったのを覚えています。

オハネフ132608 80.8.10 尾久

次もオハネフ13形。

オロネ102020 80.8.10 尾久

その次はロネのオロネ10形。
全く断面形状の異なるオロネ10形は編成の中で異彩を放っていました。

マニ372008 80.8.10 尾久

殿はマニ37形。
右手には非冷房の115系初期車が居ます。
この当時は優等列車や特急型電車も含めて様々な車両が入庫していたのに、掃除しただけで写真は撮っていません。
今考えると勿体ないことをしたものです。


クハ1610 80.8.16 中村橋ー練馬

尾久客車区のバイトはひと夏だけで、翌年はしませんでした。
約一か月半弱、列車運用間合いの時間勝負の結構タイトなバイトで、汗をかきつつも得難い経験をした夏の思い出です。

16 件のコメント:

北マト さんのコメント...

このバイト、夏の真昼間の車内は地獄でしたね。特に、非冷房の常磐線客車は、尾久に来る前に冷えていないので、多分40度越えだったでしょう。当方は専ら昼寝に当てていた時間帯に、鉄しているとは知らなかったです。気合いの入れ方、さすがですね。

chitetsu さんのコメント...

北マトさん
真昼の車内は地獄でしたね。
ひたすら汗を拭きながら掃除をしたのを思い出します。
休憩時間はカメラ片手に構内をうろつきましたが、後半はそれも飽きて昼寝していた気がします。

青春M さんのコメント...

こんにちわ
暑さでたいへんでしたでしょうが、なんとおいしいバイト
休憩中にしっかり記録されてるとこがまたすばらしいです
しかし客車にサボがついてると、なんて魅力的なんでしょうぅぅぅ

chitetsu さんのコメント...

青春Mさん
結構しんどいバイトでしたが、役得もありました。
普段は入れない場所にも堂々と入れてよい経験をすることが出来ました。
サボも絶滅危惧種ですね~。

12号線 さんのコメント...

ご出勤ですが、尾久か田端駅駅下車で操車場に向かわれたのでしょうか?
品川ですと、東京着の夜行列車などの回送に乗車できたようです。

chitetsu さんのコメント...

12号線さん
出勤は上中里駅からが最寄りでした。
住宅街の中を歩いて5分ぐらいで着いたと思います。
品川は分かりませんが、尾久はみなさん上中里ルートが多かったみたいですね。

赤影 さんのコメント...

僕はもうこの年には練馬でバイトでした。
chitetsuさん来てたのっていつだっけ?

駅弁売りわんわん さんのコメント...

おれはバンドやってたな・・・・
アレが戦後の半分だったのかー。
古い人間になっちまったのー。
駅弁売りやってみたい。

阪鉄車輌 さんのコメント...

東京北鉄道管理局にはそんなシゴトがあったんですか?!!
私は天王寺鉄道管理局で主に阪和線の駅務の泊まり勤務や日勤をしていました。
駅なので珍しいと言ってもせいぜい踏切小屋くらいしかありませんでした。
改札入るので硬券はようけ集めましたが。

EF15やED60が走っていましたが天リウに行っても車種はそれほど豊富でもないし、当時はEF58も珍しくありませんでした。
大ムコにでも行けばよかったのかもしれませんね、残念!

chitetsu さんのコメント...

赤影さん
練馬バイトはこの翌年の夏だったと思います。

chitetsu さんのコメント...

駅弁売りわんわん殿
ガンガンバンドやってた頃でしたね。
あの頃が戦後の折り返しだというのはビックリです。

chitetsu さんのコメント...

阪鉄車輛さん
鉄バイトしていたのですね!
駅務はなんでもアリで大変だったのではないですか?
友人が京急の駅務バイトしていて、色んな話聞きました。

C571 さんのコメント...

私は日本食堂の駅売へ。35年前、夕方から地上ホームからの夜行出発前の食料争奪戦は凄かった!青春のいい思い出です(^^;;

駅弁売り新busu-jun さんのコメント...

私も駅売店派へ。「津軽」「おが」「越前」「能登」「鳥海」と・・・次から次へと旧客夜行が走ってましたね。発着ホームもまさに修羅場でした。で、頭の中は終戦記念日というよりバイト代の使い道=撮影旅行の行程しかなかったと記憶します。その意味では、今の学生のほうがしっかりしている気が・・・

chitetsu さんのコメント...

駅弁売り新busu-jun さん
1980年の夏は旧型客車の夜行急行が最後の活躍をしていた時代でしたね。
上野駅は今と違って観光客でごった返していた気がします。
自分もバイト代でどんな私鉄を見に行けるかばかり考えていて、終戦記念日という感覚はほぼなかった気がします。

chitetsu さんのコメント...

C571さん
あの頃の夜行列車は相当な混雑でしたね。
それが35年でこんなにも変わってしまったわけですね。